「隠す」生き方

 硬く口を閉ざして、人には言えない秘密を持っている。これだけは口が裂けても言えないと心にもち続ける、そういう人がいる。人にはそういうものがある。


   ふるさとをかくすことを
   父は
   けもののような鋭さで覚えた
     ふるさとをあばかれ
     縊死(いし)した友がいた
     ふるさとを告白し
     許婚者(いいなづけ)に去られた友がいた
   わが子よ
   お前には
   胸張ってふるさとを名のらせたい
   瞳をあげ何のためらいもなく
   これが私のふるさとですと名のらせたい。


 この詩「ふるさと」は、部落出身の詩人、丸岡忠雄の作である。大阪で1970年代につくられた部落解放教育の読本「にんげん」(中学生版)にこの詩が掲載された。「縊死(いし)した友がいた」のところは「ふたたびかえらぬ友がいた」と変えられた。これを読む中学生にとって、首吊り自殺という表現があまりにきつすぎると、編集委員会が考えたのだろう。
 出身を「隠す」、この行為は多くの被差別者の酷烈なる葛藤をもたらす体験であった。明治の時代、いまだ部落解放運動の起こっていなかった時代、島崎藤村は、「隠す」という苦しみを背負った主人公の生き方を信州を舞台にして小説「破戒」に書いた。この小説では、差別語がそのまま使われている。
 主人公、瀬川丑松は被差別部落出身者であることを隠して、小学校の教師になった。しかし、最後そのことを子どもたちにも告白し、隠していたことを土下座して謝り、学校を去っていく。
 「隠す」という行為は、丑松の父の厳命であった。
 『たとえいかなる目を見ようと、いかなる人にめぐりあおうと、決して打ち明けるな、一旦の怒り悲しみにこの戒めを忘れたら、その時こそ世の中から捨てられたものと思え。』
 藤村の筆はこう続く。
 「こう父は教えたのであった。『隠せ』――それを守るためには今日までどれほどの苦心を重ねたろう。『忘れるな』――それを繰返す度にどれほどの疑いと恐れとを抱いたろう。もし父がこの世に生きながらえていたら、まあ気でも狂つたかのように自分の考えの変つたことを憤り悲しむであろうか、と想像してみた。たとい誰が何と言おうと、今はその戒めを破り棄てる気でいる。
 『おとっさん、かんにんして下さい。』
 わびいるように繰り返した。」

 この小説では、部落出身であることを明らかにすることによって、差別との闘いを始めるのではなく、隠していたことを謝ってその責めを負い、日本から逃れて去っていくという生き方を選んだ。
 学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に丑松の慕っていた部落解放の運動家、猪子蓮太郎が殺される。丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破り、その素性を打ち明けてしまう。そしてアメリカのテキサスへと旅立っていった。

 ぼくは1966年から13年間、非差別部落を校区に持つ学校にいた。1970年代に始まった教育実践の核は、「隠す」生き方ではなく、子どもたちが自分や自分の家族の生活を見つめ、共に社会をつくる人間として、誇りを持って共に生きる意志を育んでいくことを目指したのだった。