第二回「教育創造ミーティング」IN 地球宿 <2>


 明治24年というと日本の近代教育が始まったばかりのころである。
長野県に大江礒吉という教育者がいた。島崎藤村の小説「破戒」は、この人がモデルになっているという。
 水野永一は、2008年(平成20)、「『破戒』のモデル大江礒吉考」(ほおずき書籍)を上梓し、つづいて2014年、「『破戒』のモデル 大江礒吉の『教育学』に学ぶ」(ほおずき書籍)を出版した。そこで明らかになったのは大江礒吉という人物と彼の説いた教育学だった。
 明治19年信濃教育会が誕生する。明治21年信濃教育会南安曇郡部会発足。大江礒吉は明治24年(1892年)、長野県尋常師範学校訓導(教諭)になる。その年、信濃教育会南安曇郡支会は教員対象に夏期講習会を開いた。夏休みの期間を変更して、9月1日から20日間、南安曇高等小学校を会場にして開催され、受講者は116名だった。
 そこで大江礒吉は、連日、一日に4時間、教育学、授業法、心理学を講義した。大江礒吉は欧米の先駆的教育学を学び取り入れていた。彼はその後、大阪、鳥取師範学校兵庫県柏原中学校でも教壇に立っている。

 このことを最近知って驚いた。感銘を受けたのは、教育における教師の学びの意欲だった。1892年は今から122年も過去である。日本が開国してまだ20数年である。新しい国づくりにむけての意欲は教育においても盛んだったことが伺える。現代とは比較にならないほど未発展の安曇野の地で開かれた民間の教育研究会のために、夏休みを8月から9月に振り替えて、20日間講習会をやったということ、116人が参加したということ、その意気込みに不思議な感慨をおぼえる。
 その後をたどれば、教師たちのその情熱も、次第に国家主義教育によって、「右にならえ」の統制教育になって行った。そして国に命をささげることを使命とする教育になって、国は滅びた。

 1945年の敗戦は、第二の開国でもあった。心ある教師たちの活動がよみがえった。新憲法教育基本法の理想にむけて、国際平和と、民主主義社会をつくろうと、雨後のたけのこのように民間教育研究団体が生まれた。そこに集い、教育創造にかける教師たちの情熱は高いものがあった。

 それから69年、学校はどうなったか。教育はどう変化したか。
 民間教育研究団体は衰退し、教師たちの自主的教育研究は弱体化し、ものを言わない教師が増え、仲間との切磋琢磨がかげりを見せ、子どもたちの生活は劇的に変わった。いじめが増え、学校へ行きたくなくなった子が激増し、生徒たちの討議力、討議によって問題を解決していこうとする意欲が乏しくなった。

 「教育創造ミーティング」で、我が子が小学生である母親からこんな報告があった。
 「学校の先生からの手紙を子どもが持って帰ってきました。読んでみると、学校で子どもらに泥んこ遊びをさせたこと、泥んこ遊びではめをはずさせたことへの謝罪文でした。学校で子どもたちが泥んこ遊びを始め、服が泥んこになった。担任としてそれを止めなかった。校長がそれを知って、保護者におわびするように、担任に言ったのでしょう。こんなことになって、申し訳ないですと書かれていました。親からクレームが来ることを恐れ、事前におわびを文書でおこなったのでしょう。文書の差出人には校長名と担任名が書かれていました。」
 報告した母親は、恐怖を感じたと言う。
 確かに恐ろしい事態である。親からの無理難題を防御しようという構えがある。さらに子どもの自然な発達の機会を学校から除こうとしている。
 ぼくなら、学級通信に、「こんな愉快なことがありました」と、泥んこ遊びをむしろ肯定的に親に知らせたいと思う。校長の事なかれ主義の防御の姿もわびしい。不祥事を起こさないように、起きれば自分の責任になるとしか考えない。この学校には、健全な教育実践が生きているのか疑わしくなる。
 こういう恐怖することが、知らないところでたくさんあるのではないかと思う。