歴史と民主主義<2>







 1942年(昭和17)の正月を人々はどんな気持ちで迎えただろうか。
 その前月に、日本は米英を相手に戦争を始めていた。それから昭和20年までの正月は戦時下の正月だった。


    人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ
                        南原繁

    八日の朝生徒の前にをののきつつ日米英の戦ひしらす
                        橋本辰雄

 南原繁は、戦後東大総長を勤めた学者だった。橋本辰雄は教師だったのだろう。日米開戦、真珠湾攻撃の報を聞き、生徒を前にした橋本先生は、恐れおののきながら、生徒に戦争が始まったことを知らせている。彼は恐ろしい結果になることを予感している教師なのだ。
 板倉聖宣は戦争に対する軍部の考えを検証し、中国侵略に対する海軍の反戦将官について述べている文章がある。
 1937年(昭和12)の盧溝橋事件のとき、海軍大臣米内光政は戦争拡大に反対し、局地的に解決を図ることを主張する、
 そのころ、ドイツではヒトラーが政権を獲得していた。

 <1937年末にはヒットラーの『わが闘争』の翻訳(抄訳)も日本で発行されました。日本でも国粋主義者たちを中心に、広範な人々の間に強力なヒットラー尊敬熱が高まっていたのです。そこで1939年1月6日には、ドイツの外務大臣が日独伊三国軍事同盟案を正式に提案してきました。陸軍はそれに大賛成でしたが、海軍の反応は違いました。ヒットラーと協力すると米英との開戦に引き込まれる恐れがあったからです。
 日本でヒットラーへの尊敬が蔓延し始めたとき、井上成美(海軍将官)はこれを心配して手を打ちました。彼は、ヒットラーの『わが闘争』の原書を読み、そこには、日本人に対する露骨な軽蔑と嫌悪感を示した箇所があることを読み知って、海軍省内に通達を出して注意を促したのです。>

 「ヒットラーは、日本人を『想像力の欠如した劣等民族』、ただし『ドイツの手先として使うなら、小器用で小利口で役に立つ国民』と見ている。彼らの偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを『頼むに足る対等の友邦』と信じている向きは、三思三省の要あり。自戒を望む」(阿川弘之「井上成美」より)

 その後、陸軍は戦線拡大、1941年1月30日に井上成美は、「新軍備計画論」という意見書を書く。

 「米国に対しあらゆる弱点を有する日本は、その弱点を守る方策を十二分に講じない限り、不本意の持久戦に持ち込まれ、一時は西太平洋上に王者の地位を保持し得たとしても、やがて陸海両作戦軍が全滅し、米軍の東京占領、日本全土占領のかたちで戦争を終わる可能性が強い」

 この先見性に驚く。

 海軍の山本五十六、米内光政、井上成美たちは、この戦争は勝てない戦争だと充分承知していた。だが、多くの国民は、緒戦の勝利を見て、これで日本がアメリカを打ち負かすことができるかのごとく錯覚してしまった。日本は「神国」だから負けない、という多くの国民の信仰の蔓延は行くところまで行ってしまう。
 板倉は、「失敗は成功のもと」というが、「成功は失敗のもと」だと思う。そして日本の戦争は、井上成美の予言したとおりになった。
 学校での授業研究を進めている板倉は、井上成美のことを取り上げ、事実の検証をもとにして歴史認識を得ることを重要視した。
 井上成美が1942年、海軍兵学校の校長に着任したとき、英語は敵性語だから英語教育を廃止するという方向に教員会議が動いていた。そして多数決が英語廃止。それに対して、井上成美の言った言葉が検証資料に引き出されている。

 「いったいどこの国に、自国語一つしか話せないような兵科将校があるか。そのような者が世界へ出て、一人前の海軍士官として通用しようとしても、通用するわけがない。‥‥私が校長である限り、英語の廃止というようなことは絶対許可しない方針であるから、左様承知をしておいてもらいたい」

 2014年元日、年の初めに、日本の平和主義を考える。日本国民は、国際平和に貢献するという日本国憲法を遵守して、未来を開こうとしているだろうか。