歴史と民主主義<1>

 2013年が終わる。振り返ると今年も、世界で日本で、国レベルで地方レベルで、これはいったいどうなっているのだと思うことが、頻発した。民主主義について議論も起こっている。
 何かがおかしい。何かが狂っている。どうしてこうなるのか。その原因を究明するために根源的なところを調べることがなされているとは思えない。
 大晦日は、自分の心身を洗い清め、もろもろの煩悩、自分を縛る観念を解き放ち、自由になって、新年を迎える準備をする日である。
 板倉聖宣セレクション「いま、民主主義とは」(仮説社)という本が出ている。自分自身、日ごろ考えていることが、いつのまにか固定的になっていることが多い。それを突き崩してもう一度考え直すために役に立つ本である。
 こんな板倉の主張がある。

 <社会を科学的に認識するうえで、もっとも大切なことは「すべての社会現象を『善意と悪意とのたたかい』とする見方を克服する点にある」と、私は思っています。いくら善意であっても、悪い結果をもたらすことはいくらでもあるし、ある人からは悪意の結果に見えることも、たいていは善意から出たことなのでず。ですから、「人の善意・悪意」を問題にするよりもまず、「社会の法則」を研究して、「いい結果をもたらすにはどうしたらよいか」見極めることが大切であるわけです。>

 <「学校というところは正義を教えるところ」「教育というのは正義感を養うことだ」と思っている人が少なくないようですが、私は「そのような考えはまちがっている」と思っています。「自分の正義感を信じるだけで、社会の法則に気をつかわない人はとてもこわい」とも思います。「そういう人は、私たちにとんでもないことを押し付けたりする危険が少なくないから」です。学校は正義でなく真理を教えるところです。「いくら正義でも、社会や自然の法則性を正しく知らなければ、いい結果をもたらすことはできない」ということを教えないと、とんでもないことになると思うのです。戦争だって正義がもとになってはじまるのです。「正義がその結果に目を閉じて絶対的な権力をふるうことほどおそろしいことはない」といえるでしょう。そんな正義が一度勝利をおさめると、あとが大変です。その正義の押し付けから、かえってさまざまな悪い結果が生じても、その正義は「建前上正しいと認めざるをえない」ので、なかなかその正義の押し付けを改めることができなくなるからです。そうなると、せっかくの民主主義社会も、絶対君主社会以上になんとも困った社会になってしまいます。>

 <世界ではここ15年ほどの間に、社会主義政権が相次いで崩壊しましたが、それは社会主義国に「悪い政治家」ばかりいたからではありません。「賢い政治家」が出なかったからでした。「社会主義という理想の政治体制」を、「どんなことをしてでも守ろうという正義」を振り回した「よい政治家」が、結果として社会主義が崩壊する状況を作り出したのです。社会の問題は、「心清き、よい人が善意を持ってみんなを指導すれば、よい結果となる」というわけではありません。どんな分野でも、素人は社会の法則を無視した直感的な判断をしがちです。そして、その直感的な判断がただちに社会の進む方向を決めるものとなったら、恐ろしい結果をもたらす可能性があるわけです。そういう「社会の法則」を、早くみんなの常識にする必要があります。>

 <「民主主義の危険な一面」に気づいた少数の人でも、なかなかそのことを言い出すことはできません。「民主主義がどの制度よりも優れている」という現在の雰囲気の中では、「民主主義の危険性」に触れた途端に「民主主義を否定して、専制君主制に味方する人」と判断されてしまうからです。これは科学的に判断するのではなく、「民主主義の悪口を言う人は専制君主の味方」という立場から、党派的に考えてしまうことから起きています。「民主主義の危険性」を主張することは、民主主義を否定することと同じではありません。>

 <私は民主主義が大好きです。しかし、」私が大好きなのは「多数決」ではありません。民主主義は、「すべての人々が納得すざるをえない真理の体系としての科学」を生み出して、ヒューマニズムを確立したからこそ私は大好きなのです。それが、「仮説実験授業という私たちの認識論=教育理論を生み出した」のです。しかし、多くの人は、「民主主義とは多数決のことだ」と思っています。そこで私は、かなり前に「最後の奴隷制としての多数決原理」という文章を書いたこともあります。「多数決主義の民主主義」は、しばしば「衆愚政治」にならいます。>