フィギュアスケート選手の涙


 ライトに浮かび上がったリンク中央で、織田が泣いている。「今日をもって現役を退く決意をしました」という意味の声が埼玉のアリーナに響く。観客席から拍手が起こった。声が飛んだ。そのとき、織田をめがけて飛び出してきた人たちがいた。鈴木、浅田、村上たち、ソチオリンピック代表に選ばれた女子選手だ。彼女たちは織田の肩を抱き一緒になって泣いている。男子の高橋の姿も見えた。スケートフィギュアの大会でフリー種目が行なわれ、ソチへ行く日本代表が決まった翌日の、同じアリーナでのエキシビション光景だった。
 代表が決まる競技大会最終日、女子村上は最高の滑りができたことで号泣した。その後、男子の織田が村上と会場の廊下で一緒になったとき、織田も号泣した。その様子をテレビが伝えていた。
 選手たちは、泣くということを抑えないで、カメラの前でも声上げて泣いている。見ているほうも眼がうるうるする。
 その映像を見た後で、あんなにもスポーツ選手が泣いている、こんなことは他のスポーツであるだろうか、という思いが湧いた。これはフィギュアスケートという個人競技だからだろうか。技と美のスポーツであるフィギュア、選手の表現力を示すスポーツ、その特性が関係しているのだろうか。
 フィギュアには回転という極限にいどむ技がある。そして音楽に合わせて舞うという芸術性がある。体のもつ力の極限に挑む技と、美を生み出す芸術的表現力、それが合わさって高い純度の演技を生み出す。選手たちはその究極の演技を追求して精進してきた。その過程は、体力、知力、感覚、感性、感情を磨き、鍛える過程だった。
 彼らはあんなにも素直に感情を発露したのはそういうフィギュアだったからではないか。
 では、他のスポーツはどうだろう。
 サッカーの場合、体力と知力、技によってチームプレイを発揮する。美とか芸術性とかは考えていない。しかし、シュートしたボールがゴールに入ったその瞬間のプレイの美しさはたとえようもない。野球選手のホームランを放ったとき、ピッチャーが打者を打ち取ったとき、野手がファインプレイをしたとき、その姿には美がある。イチロウのプレイする姿には芸術的な美がある。陸上競技の選手の走る姿も美しい。
 鍛えに鍛え、磨きに磨いた体力と技が発揮されたとき、そこに美が生まれている。
 勝ち負けを競う競技は、強くあるべきだ、そして勝つことだという最大の目的が優先される。それがあまりに強く意識されて、磨かれた体と心が軽んじられると、美は隠れてしまう。強者には涙はない、涙は「めめしい」とする意識が強いあまりに、人間らしい感情表現が飛んでしまっているスポーツ選手が多い。日本のスポーツ界には、体罰や罵倒による指導がはびこっていた。抑圧の指導とも言える。学校体育は特にひどかった。それがたおやかな感性を押し砕いた。
 うれしいときにうれしいと表現し、悲しいときに悲しいと表現する、泣きたいときには泣く、その感情まで自己抑制してしまう拘束力のある所では人間は育たない。
 フィギュアスケートの号泣する彼らが、あのように感情を率直に表せたことは、競技の重圧から精神的に解放されていたからでもある。互いにライバルであるけれども、ともに切磋琢磨する同志的つながり、連帯意識を共有しているからでもある。
 泣いて抱き合う彼らを見ると、人間のかわいさを感じる。