「引き揚げの人」北川冬彦


      引き揚げの人

北川冬彦


裏に犬の毛皮をはった帽子をかぶる、異様なかっこうの人だった。
背負った荷物の端に
錫のやかんを一個しばりつけていた。
――こいつはるばる蒙疆(もうきょう)からくっついてきたんですからね。
まるで赤ん坊でもあやすように
やかんの腹をぱんぱんと手のひらでたたきながら言うのだった。
あの人は焼け野と化した水戸で下車したが
粉雪の吹きつけるプラットフォームに降り立って
呆然、しばし動こうともしなかった。
覚悟はしていたものの
あんなにひどいとは思い設けはしなかったのであろう!
帰心矢のごとく
胡沙(こさ)吹きすさぶ蒙疆より、引き上げてはきたものの
はたしてあの焼野の
いずこに寄る辺があったのだろうか。
プラットでは
人びとは群れ
粉雪を頭から降りかぶりつつ、蒸し芋を買うのに忙しかった。


 北川冬彦は、1900(明治33)大津市に生まれ、大連小学校、旅順中学校、三高から東大を卒業している。1929年に詩集「戦争」を出版し、戦争を批判的に表現。現実を直視し、現実の内奥を厳しくとらえた。1965(昭和40)没。
 この詩のなかの、蒙疆(もうきょう)とは、中国の旧チヤハル・綏遠両省、および山西省北部の称。
 胡沙(こさ)は、アイヌ神話に出てくる、霧を起こし病魔を退散させる、蝦夷の人の吹く息という意味もあるが、この詩の「胡」は中国の北方・西方の遊牧民、「沙」は、砂。
 戦争が終わり、焦土となった日本へ、たくさんの人びとが引き上げてきた。「満州」からの逃避行で、子どもを失い、家族は分かれ分かれになり、奇跡的に生き延びた人びとのみが祖国の土を踏んだ。そして、すし詰めの列車に乗って故郷の駅に帰ってきたものの、故郷は焼け野原になっていた。季節は冬である。呆然となすすべもなく、プラットフォームに立って焼け野原を眺めるだけだった。
 着の身着のまま、背中に背負った荷物にぶら下げられたやかん、中国の奥地から日本を目指し帰ってきたこの人は、途中の飲み水をこのやかんに汲んできて、命をつないできたのだろう。
 家はなく、財産はなく、寄る辺もなし、一晩の宿も見つからない。国の政策で、外国へ移住し苦難の道を歩み、あげくのはては国の推し進めた戦争によって、すべては灰燼に帰した。
 生き延びた人びとは、ここから、このゼロの地点から、手探りしながら歩き始めるしかなかった。我が家から山手にも、引揚げてきた人の開拓した田畑が広がっている。かつて住んだ那須野にも引揚者の開拓地があった。移民の記憶、引き揚げの記憶を持つ人は、今ではほとんど亡くなり、遠くにかすんでしまっている。しかし、あの時代を生きた人びとの辛酸は歴史の中に厳として刻み込まれている。次代を生きる人は、それを忘れず、それから学ぶことによって新たな未来を創ることができるのだ。