12月8日・14日の投書を読んだ

 12月8日、朝日新聞の「声」の欄に、早乙女 勝元の名前を見た。「声」の欄は、庶民の声を投稿するサイトである。そこに、著名人の作家、早乙女の名前がある。タイトルは、「朝、目覚めたら戦争だった」。

 <1941年12月8日、私は東京下町の国民学校4年生だった。霜が張った寒い朝、ラジオの臨時ニュースで太平洋戦争開戦を知った。
 「いつどこで始まったの」という私の問いに、母が「今朝、西太平洋だってさ」と答えたのを覚えている。みんなが寝ているうちに戦争になったのに驚いたが、ふと懸念が生じた。国民の知らぬところで始まった戦争。ならば国民は無関係でよさそうだが、そうはいかず、銃後が米軍機B29による空襲で戦場化されたのは3年後の44年末からである。
 朝食後に外へ出ると、早くも日の丸を掲げた家が多く、学校でも昼に授業を終えて、先生の音頭で『万歳万歳』を叫んだ。誰も彼も歓迎ムードだった。だが、貧しいガラス職人の私の祖父は違った。
 「世界地図を見よ、小さな桜エビのような日本が、スルメイカみたいな国を相手に戦争するとは。もういかん。もう間に合わん」
 大通りでは、寒風の中を、「神国必勝、打倒米英」ののぼりを先頭にした旗行列が途切れることなく続いていた。>

 日米開戦、真珠湾攻撃の翌朝のことを書いている。投書の文章はこれだけである。早乙女勝元氏は、児童文学作家でもあり、「東京空襲を記録する会」を結成して、ルポルタージュも著している。2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長にもなった。ベトナム戦争の被害者救援にもたずさわった。早乙女氏なら、書きたいことと掲載場所はいくらでもあろうが、早乙女氏は、庶民のこの投稿欄に投書した。
 新聞の「声」の欄は、わずかな制限字数にまとめなければならない。だから書きたいことの一部分に絞らざるをえず、どうしても概略的になる。ぼくは毎日斜めに目を通して、目に留まった記事があると読むことにしているのだが、不思議なことに、記事のほうから飛び込んでくるのがある。今朝の「声」のトップがそうだった。それも早乙女勝元に関連した、すごい文章だった。投稿者は小川薫子さん、68歳。タイトルは「霜の朝から72年 私たちは学んだ」とあった。

 <ああ、やっぱり「十二月八日」は寒い霜の朝だったのだ。8日、早乙女勝元さんの投稿を読んで、ゆくりなくも加藤楸邨の一句を思い出した。

    十二月八日の霜の屋根幾万

 この句を知り、俳句という切り詰めた短詩のすごさに心底感動した。
これは旧民法下の社会の最小単位である「家」の唯一の責任者たる「家長」の句だ。
 一面霜に覆われた幾万のつつましい屋根の下には赤子もいる、老人がいる、女たちもいる。こんなことをしでかして、一体どういうつもりなんだ。ついに英米を相手に本格的な戦争に突入してしまった。自分たちは本当に責任を負ってゆけるのだろうか。今でさえ貧しいものや弱い者たちは、このさきどうなってしまうのだろうか――口には出せぬ怒り、不信感。厳しく孤独な「家長」の救いがたい無力感がひしひしと伝わってくる。
 読むたびに涙がこぼれるような哀切な母の反戦の歌がある。

   わが生のあらむ限りの
   幻や
   送りし旗の前を征(ゆ)きし子
          小川ひとみ

 楸邨の句も万感胸に迫って、立ち尽くす寡黙な父の永遠の反戦詩だとつくづく思う。
 いざ事が動き始めた時はすでに遅い。あの霜の夜明けから長い年月が過ぎ、私たちは少なからず学習してきたはずだ。>

 小川ひとみさんの短歌は、一行書きだったが、ぼくはここで勝手に3行にした。
 この短歌から推し量れば、筆者のお母さんの子ども、すなわち筆者のお兄さんは、兵士として出征していったのだ。「勝ってくるぞと勇ましく」の軍歌と旗に送られて。そして戦死したのだろう。母の一生を通して浮かぶのは、この息子の幻だった。
 この文章を読んでいて、頭に浮かんだのは三好達治の短詩「雪」だった。

          雪

   太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
   次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 短詩の極点と評される詩である。太郎、次郎、雪降る下で、それぞれの家族のなかで、家に守られて暮らしている子ども。
 幾万の子ども、幾万の農民、幾万の街の人、幾万の庶民、しんしんと降り積む雪の中で生きている庶民。「幾万」のこの「万」は、10000ではなく、「よろず」、すなわち、数え切れないたくさんの数である。
 開戦は、それらずべてを破壊してしまう破局の始まりだった。