日本の歴史 <堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」<1>



 堀田善衛の自伝的長編小説「若き日の詩人たちの肖像」(1968年)は作者に召集令状が来るまでをつづっている。戦時期、日本はどんな状態であったか、人びとはどんな暮らしをし、何を考えていたか、歴史を学ぶとき、こういう記録が真実をとらえるための資料となる。「若き日の詩人たちの肖像」のなかの、次のような断片記事にも、戦時期の実態が現れている。


 「一座にしばらく沈黙が訪れると、黒めがねの君がその黒めがねをとって眼をぱちぱちとしばたたき、学生服のポケットから新聞の切抜きのようなものを取り出した。
『室生さんがね、こんなものを書いていたよ。ちょっと読んでみるぜ、陥落す、シンガポール、って題なんだ。

   皇軍向かふところ敵なし
   進撃また進撃
   砲火虹のごとく
   マレーをおとしいれ
   香港を打ち砕く
   怒涛は天に逆巻き
   敵拠地シンガポールを屠る(ほうる)
   この日
   日本はしんとして
   その父と母は打ち寄り
   すめらみくにのみいつを説く
   子どもらよ
   兄よ
   妹よ
   ゆめにはあらず
   シンガポール陥(お)ちたり
   ことほぎまつれ
   つはものを讃へよ
   歴史にもかがやけ
   シンガポールは陥ちたり
   シンガポールの燈火は消えたり
   百年の魔の都に
   日の御旗たてり
   シンガポール陥落せり

こんなものなんだな』
 若者はただ、ああ、あの『性に目覚める頃』の室生犀星がな、とだけしか思わなかったが、汐留君がすぐに引き取って、
『ひでぇものを書きやがったな。怒涛は天に逆巻きたぁなんだね』
と言った。
『‥‥やっぱりこんなものなのかねぇ』
 こんなものがどんなものなのかわからなかったが、黒めがねの奥でまたたいている眼は、あきらかに彼が不同意であることを物語っていた。
『だけど、こんなもんのなかでは、おとなしくて品もあるし、いい方なんじゃないの』
と若者がふと思いついて言ってみると、すぐに汐留君が、
『歴史にもかがやけたぁ、これもまたなんだね』
とやり返してきた。
 ‥‥こういうふうな詩をめぐる論議には、何かしら辛いものがある、日本国家への義理立てということもあってみれば、何かがのどか頭かにひっかかって、徹底したことが、あるいは本当のことが言いにくいという気味がある、と感じていた。」

 文中の詩に出てくる「すめらみくにのみいつ」は、「皇国の威光」という意味である。「ことほぎまつれ」は「祝福申し上げよ」、「つはもの」は「兵士」である。
 第二次世界大戦において、日本軍は東南アジアにも進撃した。イギリス植民地だったシンガポールが陥落すると、日本国内では祝賀行事が繰り広げられた。詩人の室生犀星も、このような戦争協力詩を書いている。多くの文学者、芸術家が戦争遂行に加担した。それに対する学生たちのこのような批判意見は、特別高等警察特高)の摘発を受け、残酷な弾圧の対象となった。本当のことが言いにくい、言えない時代だった。国民の思想も意識も行動も一体化し総動員する体制には、戦争を肯定し、戦争に協力してしまう大きな国民の集団的うねりが生まれる。反戦、反権力の思想や左翼思想を貫く人はきわめて少なかったが、それらの人は作家の小林多喜二のように、摘発され特高警察によって虐殺された。
 戦争が終わってから、戦争協力の作品を書いた作家たちは批判の対象になり、高村光太郎のように責任を感じて隠棲する人もいた。
 歴史を学ぶということは、人びとはいかに生きていたかを学ぶことであらねばならない。