リービ英雄、小説「千々にくだけて」


 アメリカ人の日本文学研究者であり、日本語の作家であるリービ英雄は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をテーマにした小説「千々(ちぢ)にくだけて」を書いている。
 2001年9月、主人公エドワードは、日本からニューヨーク行きの飛行機に乗る。カナダのバンクーバー乗り換え便だった。
 飛行中、機長のためらいがちな声がスピーカーから流れた。

 <悪いニュースを伝えなければなりません。連絡が入りました。
 声が一瞬だけ途切れた。たぶん、機長室にはその連絡がすでに何時間も前に入っていたのだろう、平板な声で、
The United States
と機長がまた言い出した。
 それから、ゆっくりと、優しげな口調となって、
has been a victim
と言いつづけた。
 耳に入ったそのことばは、意味をなさなかった。頭の中で奇妙な日本語が響こうとした。
 アメリカ合衆国は、被害者となった。
of a major terrorist attack.
 アメリカ合衆国は、甚大なテロ攻撃の被害者となった

 <わしいことは、今伝えられません‥‥
  The United States、と機長は言いつづけた。アメリカ合衆国は、したがって、その国境をすべて閉鎖しました。アメリカ合衆国には誰も入れないし、アメリカ合衆国からは誰も出ることはできない。>

 経由地バンクーバーに到着すると、アメリカの国境は全て封鎖されていた。アメリカは、徳川時代の日本のように鎖国状態になった。彼の9.11体験はこうして始まる。そのときの体験が「千々(ちぢ)にくだけて」であった。

 ブッシュ・アメリカはテロリストへの報復としてアフガニスタンを攻撃し、イラク戦争を行った。
 アメリカ合衆国ではイスラムへの敵意が広まり、ムスリムに対するヘイトクライム(「憎しみ」に基づく差別犯罪)の数が急増した。イスラム寺院イスラムの学校、中東系のコミュニティへの脅迫、落書き、石や火炎瓶の投げつけ、銃撃、悪質な嫌がらせが多発した。道を歩いていても罵声を浴び、アラブ系経営者の店やモスクも閉鎖を余儀なくされた。職場を解雇された人もいた。
 アメリカ合衆国は、「アメリカ合衆国であり続ける為に」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定した。市民のプライバシーを大幅に制限し、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認した。アメリカ合衆国入国時に令状抜きで連行・収監、自白を取る拷問が行なわれた。
 アメリカに全体主義傾向が強くなった。

 9.11からはるか60年前、アメリカが直接攻撃を受けたもう一つの事件があった。
 1941年12月8日の、日本による真珠湾攻撃である。日米開戦、アメリカは報復の塊となった。アメリカの公民権を有していたにもかかわらず日本人移民は、長年の努力の積み重ねである住居、財産、仕事を奪われ、酷烈の地につくられた強制収容所に入れられた。
 4年後、太平洋戦争は惨憺たる日本の敗北となり、日本の全土が焦土となる。人類初の原爆が二発、投下された。

 リービ英雄のペンは、カナダ・バンクーバーに降りた主人公、エドワードの目でみた町の通りの様子を書いている。

 <噴水のまわりは何百枚もの色とりどりの張り紙におおわれていた。
近づいてみると、張り紙には、「殺すな」とか「復讐を考えるな」とか、ただ「悲しみをもって」といった意味の短いことばが書かれていた。中には泣き顔やピースマークをクレヨンで描いた絵もあった。噴水の上には、「ことばとアートで気持ちを表現しましょう」という横断幕がかかって風に揺れていた。>

 「千々にくだけて」というタイトルの由来について書いている。機長のアナウンスを聞いてから、バンクーバー空港が近づき、北米大陸の海岸を飛行機から見たときのことである。

 <小島と入り江が見えた。松尾芭蕉が松島の小島群を詠んだ「千々にくだけて」という日本語を、そのとき思い出した。
  まつしまや、 しまじまや、ちぢにくだけて、なつのうみ
‥‥>

 エドワードはアメリカに入れず、ホテルに滞在した。通じなかった電話がやっと通じてニューヨークの妹と話ができた。妹は電話で話した。

 <夏の終わりなのに淡雪は変だ、と思って、うらのデッキにつながるキッチン・ドアを開けてみると、デッキの床は淡雪ではなくよごれた白色の灰におおわれていた。デッキへ出てみた。‥‥見上げると、空の中に灰の川がマンハッタンの方から流れていた。
 空の中をとめどなく流れてきて、ストリートとビルに静かに落ちている灰の中に、紙の切れはしも見分けられたんですよ。‥‥
 マンハッタンから、灰に交じって、何千もの窓から飛ばされた書類とメモ用紙が川を渡ってブルックリンの奥まで、二マイルも三マイルもの流れとなって降ってきていた。‥‥
 朝の空は、まるで旧約聖書の話みたいにだんだんと黒くなっていた。アベニューの上にもストリートの上にも、破れた紙、まだ燃えている紙がうずまいていた。そしてわたくしの頭の上のすぐ上に紙が舞っていた。わたくしは手を伸ばして、蝶をつかむように紙の切れはしを手に取った。そこにはワープロで打たれた文字が見えた。Please discuss it、と書いてあった。次の行は、with Miss Kato at Fuji Bank と書いてあった。
 また空から何枚ものメモ用紙が降ってきてデッキにちらばった。アパートに入って、リビングルームのテレビを付けた。もうすでに二機目の飛行機が突っ込んだところだった。>

 妹は、アメリカに来るな、と言った。エドワードはニューヨークに行くことを断念し、日本に戻ることにした。
 千々にくだけてしまった。それは破壊された物やシステムだけではない。心も、体も、国も、社会も、文明も、人とのつながりも、「千々にくだけてしまっていた。」