今の日本を考えるために50年前を振り返る <2>


 米軍兵士、清水徹雄の「脱走」は、その後どうなったか。
 彼は日本国憲法に守られて、日本社会で暮らす道を選択した。しかしいつ逮捕されてアメリカに送られ、牢屋に送りこまれるか分からない。その危険性もあったが、小田実は彼を予備校職員に就職させ、普通の一市民として生きる道を歩ませた。
 ところが、彼が提示した「声明」は、一大議論を巻き起こす。
 批判の声が上がった。
 「お前は甘かった。甘えるな。」
 清水氏は応える、「ぼくは甘かったことは認める。無知であったことも。」
 「自分は甘かったと認めたからといって、無知やうかつさや、甘さが帳消しになるというものではないぞ。」
 「お前は死ぬのが怖かっただけだ。」
 清水氏は応える、「そうだ、死ぬのが怖かったのだ。あなたはどうなのだ。」
 「べ平連ニュース」に、「岐阜べ平連」の加納和子氏による「日本国憲法と清水君への疑問」という一文が掲載された。


 「武力の放棄を示した憲法第九条は、『日本国民は‥‥』と始まっています。
 そして、憲法第一二条には、
『この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない‥‥』
と国民の責任をはっきり明言してあります。清水君は日本国民として他国の国権によるベトナム戦争に直接参加した後に、日本国憲法に救いを求められたわけですが、戦争に参加した時点においてすでにこの憲法を自ら犯したことにならないでしょうか。
 憲法九条は日本国民におまかせしたものではなく、まして他国であるアメリカにおまかせしたものではありません。国民ひとりひとりの不断の努力という責任を持たされているのではありませんか。ベトナムで武器を持ってたたかったことは清水君個人としてこの第九条にふれる行為をしたのです。‥‥
 憲法を犯した者を、憲法において守ろうとする論理に強い抵抗を感じます。私たち日本国民は、国家が犯している戦争協力を防ぐべく、あらゆる努力をしなくてはならない。これが憲法の真の精神ですし、べ平連参加者の信条としなくてはならないでしょう。平和憲法を持たないアメリカ兵士の脱走とは根本的に区別されるべきものです。
 アメリカ国家の外国人徴兵が、国際法上の明らかな違反行為であるのなら、堂々とアメリカの法廷において、国際法違反の闘争を繰り広げていただきたい。日本国内における幾多の安保違憲法廷論争のように、そして私たちべ平連や、国際法律学者、その他あらゆる力を動員して、その闘争のために、援助すべきではないかと思うのです。清水君もその闘争の中で、権利というものは与えられたものではなく、自らの努力で獲得し、またそれを自らの手で守るべきものと感じとることができましょう。それはまた、憲法を犯した者の義務でもあると思います。」


 清水氏を助けた小田実たちも、この意見と同じ批判を持っていた。そうではあるけれど、彼は救いを求めてきた。ではこれからどうする。
 「べ平連ニュース」の1968年11月号に、新宿西口で「清水徹雄君を守る署名」を行なったときの記事が出る。
 たちまち百名近くの人びとに取り囲まれた。人びとは言った。
「米軍と契約した者は、その責任をとらなければならない。そのために米軍に引き渡すべきである。」
「好きでアメリカに行ったのなら、男らしくベトナムで死ぬべきだ。」
日本国憲法を売った者を日本国憲法で保護する必要はない。」
アメリカで徴兵を拒否せず、ベトナムへ行って泣きつくなんて、ふざけるんじゃない。」
 小田実たちの気持ちは惨めだった。そこで再び新宿西口に立つ。今度は、人びとと議論をする強い態度に出た。
「では清水君をベトナムで戦わせたいのか。それとも日本で絶対に守りたいのか。」
ベトナム戦争を支持するのか、どうなのか。」
憲法をとるのか、安保条約をとるのか。」
 議論した相手は、清水支持、反対と明確に分かれた。小田実は、その時のやり方についてこう書いている。
 「相手の言葉に責任を持たせるために、さらにその責任を行動で現わさせるために、激しく相手に詰め寄ったのは、ともすればラディカルになりつつある市民運動を初期の理念に近づけたかったからだ。清水君の提起した問題を、自己のものとしてとらえられない人は、真に市民運動をやっているとは言えないだろう。ぼくたちは訴える。清水君のとった行動の真の意味を、真摯な態度で自分自身の問題として考え直すことを。」
 当の清水氏は悩んだ。そして批判した人を探し訪ねて、訊いている。
「じゃあ、ぼくはどうしたらいいんですか。」
 たずねられた人もまた悩んだ。小田は書く。
 「清水氏はふつうの市民として、ふつうに仕事をし、ふつうに暮らそうとしていた。彼を逮捕することは、いつ、どこでも簡単にできた。彼を護る者は世論だった。いや、そういう使い古された言い方はよそう。市民の反応――そう言った方がよいだろう。清水氏も私たちもそれにかけた。
 そこからいろんな市民の努力の堆積があった。ジャーナリストが懸命に活躍した。弁護士たちは「清水君を守る弁護団」をつくって活動した。
 1968年12月14日、アメリカ大使館のスポークスマンが発表した。
 「米国政府および在日アメリカ大使館は、慎重に検討した結果、清水君の逮捕を日本当局に要求しないことに決定した。」
 この決定にべ平連代表、吉川勇一は述べた。
 「これは日本の国民の側の完全な勝利です。」
 弁護団は声明を出した。
 「日本人自らが、日本国憲法が、日米安保条約に優位していることを貫徹したものであった。」
 小田実
 「この『勝利』はとりわけうれしいことだった。それはイントレピッドの四人以後、十数人を無事に国外に出した後、11月5日にはじめて北海道、釧路で『脱走兵』に逮捕者を出したことがあったからだ。清水徹雄の『勝利』にかかわって記者会見した翌々日には、大阪で別の『脱走兵』が逮捕されている。釧路の場合、まちがいなく『脱走兵』を装って私たちの中に入ってきた『スパイ』の工作によるものだった。」
        つづく