政府と国会にお任せからの脱却

 けさ新聞をみると、上田市の小学生が車にはねられて重体というニュースが載っていた。長野版の小さな記事だが、子どもの命が奪われていくことの重大さは、記事の小ささとは関係ない。その子は、横断歩道を青信号で渡っていて、信号を無視した車にはねられた。はねた男は30代で若い。またもや子どもの命だ。
 長野の地方都市では、渋滞することが少ないから、制限速度をオーバーして走るのが一般的になっている。田園地帯で前後に別の車がなかったら、制限速度が50キロの標識があっても60、70キロのスピードで走ってしまう。
 車は全体的にスピードが上がっていて、信号機のある交差点にさしかかると、黄色になっていても大抵そのまま突っ込んでいく。黄色で突っ込み、渡りきらない間に赤に変わっていることもしばしばだ。小学生をはねた若い男は信号の赤を見落としたと供述しているらしい。若い男はほんとうに見落としたのか、それとも赤になる寸前に通過してしまおうと突っ込んだのか、そこが微妙だ。子どもは2年生、学校から帰って遊びにいくところだった。信号が青になったとたんに走り出したのだろう、左右を見ないで。青なら大丈夫だと‥‥。
 交通信号のシステムが社会に根付いて、事故も少なくなり安全意識がうまれた。大丈夫、安全は確保されている、と思い込んでいる。それが子どもの命取りになった。
 毎日ぼくは1時間以上安曇野を歩く。週に何回かは車に乗る。そうすると、歩いているときは「歩く頭脳」になり、車を運転すると「車頭脳」になるのが感覚的に分かる。「歩く頭脳」で車を見ると、ドライバーの意識、感覚はなんと危険なことかと怒りを覚えることがしばしばである。反対に車に乗ると「車運転頭脳」に切り替わって、スピード感覚になり、歩行者感覚をなくしている。この二重性に気をつけなければならないと戒めている

 秘密保護法案が参議院でも可決されそうだ。あれよあれよと思う間に、歴史に禍根を残す問題法案が決まってしまったというようなことがないように。まさか民主主義を破壊するような法律を政府は考えるはずがないだろう、と国民の多くは政府を信頼してたかをくくっている。国民によって選ばれた民主的な議員が国民を縛って自由を奪うなんてことはないだろうと、思っている。
 政府も与党議員も「車運転頭脳」に凝り固まる。「車運転頭脳」では、歩く人は見えない。乗っている車、与党が自分の世界、そのなかの自分。

 <いいことも悪いことも、すべては自分たちから発し、自分たちに帰ってくる。‥‥「ここでは社会がそれ自身の力で、それ自身に働きかける。力は社会の内部にしか存在しない。‥‥神が宇宙を統べられるように、人民がアメリカの政治の世界を支配している」(トクヴィル)。これこそが、民主主義の出発点にあった感覚であった。そして多くの人が、この感覚を抽象的な理論として理解したのではなく、実際に経験していたことが何よりも重要であった。しかし、このような民主主義の経験が、その後のアメリカ民主主義の政治過程においても保持されたとは限らない。むしろ、アメリカにいおいても、やがて民主主義とは選挙であり、政治家による議会政治であると認識されるようになる。それでは、民主主義の経験は、歴史のなかで完全に忘却されてしまったのだろうか。重要なのは、このような原初の経験が、それでもアメリカ社会の基層のどこかに残され、時としてそれが地表の上に顔を出したということである。>(「民主主義のつくり方」宇野重規 筑摩選書)

 アメリカの原点としての民主主義の基層の問い直し。
 日本国民は、日本の歴史のなかで経験してきた近現代の経験を振り返り、日本の未来の民主主義を構想せねばならない。「選挙しておしまい」「政府国会にお任せ」からの脱脚して。