「国民の命、平和な暮らしを守るために」


 1962年に『思想の科学』が「日本民主主義の原型」という特集をした。その核が田中正造だった。田中正造の研究家・林竹二が特集の序で、なぜ田中正造なのか、次のように書いている。
 「民権思想は、いうまでもなく運動の思想で、実践は人間に支えられる。『人民の権利』を日常具体の人間生活の場で守ろうとして、彼ほど不屈に、不死身の戦いをつづけた人間は、彼の以前にも、以後にもないのではないか。彼は自己の全存在と行動で、その思想に責任を持った。」

 自由民権運動家だった田中正造明治11年(1878)、衆議院議員になったのは、古河財閥の経営する足尾銅山鉱毒渡良瀬川沿岸を汚染し、河川と農地に甚大な被害を与えていたからだった。農作物は枯死し、農民は健康を害し、貧窮のどん底に落ちた。被害農民たちは鉱業停止、損害賠償を求めて激しい運動を起こす。田中正造はその運動の先頭に立った。しかし、運動はことごとく弾圧され、谷中村は渡良瀬川の遊水池にされて滅んだ。田中正造は、農民とともに戦い、谷中村と運命を共にした。

 「田中正造は激怒した。人民の生活と権利を保護するのを任務とする政府が、人民が鉱毒によって殺されるのを黙視するのみならず、銅山の明白な犯罪行為に加担している。しかも、議会は、その政府の行為をどうすることもできない。彼は十年間、議会で鉱毒問題の解決を求めて戦って、結局議会には鉱毒問題を解決する能力も意志もないということを確認すると、弊履のごとく議会を捨ててしまった。」(林竹二「田中正造 その生と戦いの『根本義』」)

 林竹二は、1975年、宮城教育大学長退官にさいして、最終講義を行った。そのタイトルは「田中正造の初心」であった。講演のなかで、林竹二は次のように述べた。

 <田中正造は、数え年73歳で、吾妻村の庭田という人の家で亡くなるのですが、その瀕死の状態で、「現実を救え、ありのままを救え」と叫んだとつたえられています。これはまた、この谷中における天国への道普請というようなことと、どうつながってくるのか。これはまだ解明されていない問題であります。>

 ‥‥天国に至る道普請、それは何であろうか。

 <これから滅亡するんじゃなくて、日本はすでに滅亡してしまった。そして、政府が企業を庇護して人民が滅びることをかえりみないような、そういう国のあり方、文明のあり方、そういうものが根本から変えられないかぎり、その滅亡から抜け出すことはできないんだ、というところに、彼の問題意識があったんだということ、これは田中正造についてあまり語られていないことであります。
 ‥‥(正造は)ひじょうに具体的に、そこにひとつの事業として、日本という国土において、人民が再生するための具体的な道を築造する仕事を、自己の課題として取り組んでいた。これが谷中村の戦いの最後の段階での、田中正造の具体的な事業でありました。
 ‥‥谷中村問題が、今日ひじょうに大きな意味を持っておりますのは、谷中村を滅ぼしたのは、あの特異な体質をもつ明治国家であり、そしてその国家の体質はけっして過去のものではないからです。私は、この国家の体質にたいして、正面から、もっとも非妥協的に戦いをいどんだのが田中正造であった、と考えています。その戦いは、体制のわくのなかの政治によっては、どうすることもできない問題との対決であった、と思います。
 ‥‥田中正造は、最後には、憲法明治憲法)にたよって人民の権利と生活を守るという考え方を根本から否定するようになります。最後の時期に書かれた日記の中で(明治45年1月5日)、彼は、現在の憲法も法律も教育も全部廃止してしまわなければ社会人類の生命を維持することはできないと断じているのです。>

 結局富国強兵を進めた政府は、日露戦争日韓併合第一次世界大戦日中戦争第二次世界大戦へと突き進み、最後に国土は焦土になった。大日本帝国憲法明治憲法)は廃止になった。が、あまりに大きな犠牲だった。


 現代の日本、「国民の命、平和な暮らしを守るために」を繰り返す安倍首相。
 そのために首相は、日本も戦争に加わる道を開こうとする。いかに限定的だと言っても、国の向く方向は、戦争する方向であることは明確だ。戦争をしない国の方向ではない。
 「国民の命、平和な暮らしを守るために」、戦争する。戦争することは、勝つことをめざすことだ。戦う当事国はどちらも勝つことを目指す。
 さすれば、「国民の命、平和な暮らしを守るために」、「おびただしい国民の命を奪い、平和な暮らしを破壊する」。
 首相の論理の恐ろしさ。

 「谷中村問題が、今日ひじょうに大きな意味を持っておりますのは、谷中村を滅ぼしたのは、あの特異な体質をもつ明治国家であり、そしてその国家の体質はけっして過去のものではないからです。」