「ムラ社会」というもの

                     大根

 日展のような芸術の世界でも、力の構造ができていた。美術、書道、工芸の作品が入賞するためには、権威をもつ幹部のお偉方に取り入らなければならない。お偉方が主宰する会に入って、金を積んで、目をかけてもらって、そうして日本最大の芸術展に入賞する。以前からうわさはあった。胡散臭いものを感じていた。それが今回明らかになった。
 芸術の世界でもこうだ。
 「ムラ社会」という言葉がある。原子力委員会もそう言われてきた。小集団のなかで物事を進める閉鎖性をいささかの批判をこめて使われる。
 では「村社会」の「村」の実態は歴史的にどうだったろうか。地方の村は人間同士の関係が近い。親近感で一体感を醸成し、みんなが仲間内のようになる。村落共同体は、みんなが生き延び、栄えることを第一義にして村の存続を図る。自然災害を助け合って乗り越え、田畑の収穫を互助の精神で高めあう。伝統を重んじて、祭事を共にする。そのための村のしきたりには従う。村の自治も重要視される。自分たちの村は自分たちで治める。
 しかし一方で、その狭い社会では村長をトップにしたヒエラルキーができやすい。力を持つものが君臨し、へつらい、なれあいが生まれる。権力に不都合な考えや異論は排除される。村長のバックに村長を動かす長老のいる院政のような村もあった。
 そういう否定的側面の傾向が強い組織を、「ムラ社会」と呼んだ。
 自民党が長く政権をにぎり、原発を推進してきた時代には議員、官僚、電力各社の三位が一体となって政策を決め、有利な制度をつくり、事業を推進してきた。なれ合い、もたれあいが脈々と続いた。親方が政権を握って、重要なことは国民に隠す。原発推進の中央集権的な秘密の「ムラ社会」である。
 権力者になると、自分のやりたいことがうまくできるように、仕組みを作り、人的ブレーンをつくる。独裁的になればなるほど、一体的なブレーンをつくる。力を持つものの周りには、従属するもの、忠義を尽くすもの、すりよってくるもの、頼ってくるもの、利用しようとするもの、人が多く集まってくる。
 政治集団、企業、役所、学校、病院、今回の日展の組織でも、これまでの相撲協会でも、およそ集団、組織には、「ムラ社会」的体質になっているのが多い。
 インターネットにWikipediaウィキペディア)という百科事典がある。みんなでつくる百科事典であるが、そこでは、「ムラ社会」について、次のような特徴を挙げている。いろんな人が傾向と思えるものを付け加えたのだろう、なるほどと思える。

・長による支配、ボスと子分の上下関係が厳然と存在する。
・所属する「村」の掟や価値観、しきたりが絶対であり、少数派や多様性の存在自体を認めない。
・出る杭は打たれる。長い物には巻かれ、流れには棹を差すべし。寄らば大樹の陰。義理と人情。横並び。
排他主義に基づく仲間意識が存在する。
・自分逹の理解できない『他所者』の存在を許さない。
・同郷者に対しては「自分達と同じで当たり前」という意識を抱いており、自我の存在を認めない。
・傍目には異端者に寛容だが、相手を理解しようとではなく理解できるものに改造しようとしていたり、特例で見逃されているだけであったりする。
・白か黒か、善か悪かといった二極論を好む。これが「異端者は自分たちを見下している/敵意を抱いている/自分より劣る存在である」といった思い込みを生みやすい。
・弱いと規定したものに対しては、陰湿且つ徹底的に圧迫を加える。
・構成員は陰口を好む。
・有形物のみならず時間や空間に対する共有意識も強く、プライベートやプライバシーといった概念が無い。
・事なかれ主義。トラブルが起こると「される方が悪い」という理論で被害者を悪者にし、噂話は真実を追求するより噂を既成事実にする。
・"掟"に関与しない世間一般のルールやマナーにはルーズ。他者がルールを守る姿にも息苦しさを感じるため、他者にもルーズさを強要。「マナーを守らないのがマナー」と化している。
・インテリが少数であることと年長者の影響力により、架空の法律のでっち上げ、神頼みといった非常識がまかり通る。

 「ムラ社会」とはこういう社会と思える、多くの人のいろんな見方が集まっている。学校のクラスが「ムラ社会」になると、いじめが発生する。学校の教師集団が「ムラ社会」になると体罰が出てくる。