対話のないところ、知性のないところに暴力が生まれる

 表ざたにならない、隠された暴力は、ごまんとあるだろう。
 身体にふるわれる暴力と心にふるわれる暴力、
 力関係があって、強者から弱者へふるわれる暴力は、社会の中で絶えることなく続いてきた。
 教師から生徒へ、
 監督から選手へ、
 上司から部下へ、
 親から子へ、
 師匠から弟子へ、
 上下関係の固定化があり、対等平等が空洞化し、強者と弱者の関係が生じているところに、暴力は装置として生き残る。
 そしてそれは目的をもった行為として、黙認されてきた。いわく厳しい鍛錬として、しつけとして、矯正として、一つの手段として、仕方のないこととして、正しいこととして。
 島田裕巳宗教学者)は、「日本はムラ社会の原理が強く、共同体が生きるすべて」と書いていた。ムラ社会の原理を有する共同体というと、そこには長老がおり、有力者いて、年功、先輩、村役経歴などが上位の力をもち、力をふるってきた。ぐるっと見回してみると、学校もそうだし、役所も、企業もそうだ。大きな視野から見れば、政治団体もそうだ。日露戦争から1945年の敗戦までの日本は国家規模でそうだった。そしてその後の「民主主義国家日本」の実態はどうなのか、これが重要な問題だ。
 集団が存在すると、その内部に力関係が生じる。強者と弱者が生まれる。強者から弱者に対して行なわれる不当な行為は、内部で処理しなければならないという強者の論理が、暗黙の掟となる。従って、内部の問題は外部に出ることが少なかった。集団のメンバーは、弱者ではなくても、集団を守るためにという意識で行動する。それは自己保全でもあった。体育部の部活の有力選手は、進路においても有利になる。
 力関係の強い集団のなかで、不当な行為にたいして批判をすることは、組織を壊す謀反として扱われる。柔道の女子強化選手が15人だったか、JOCに訴えた行為は大きな勇気と結束を必要としたことだろう。高く評価すべきであると思う。
 作家の高橋源一郎が書いていたのは、インテリジェンス(知性)の視点だった。
「桜宮高校の『体罰』事件。ぼくは体罰や『いじめ』で怖いのは、暴力(無言の暴力も含めて)そのものじゃなく、そこには『対話』がないことだと思っている。つまり、『インテリジェンス』が存在しないことだ。『インテリジェンス』のない教育って、なんなんだろう。ぼくには意味が分からない。」
 確かにそうだ。暴力の存在するところには対話が存在しない。対話がないということは、インテリジェンスがないということだ。対話という道具を使えない教師、政治家、医師、監督、上司、指導的立場にあるあらゆる人に必要なのは対話だ。そして弱者にとっても必要なのは対話力だ。それのない社会に、暴力がひそむ。
 ブッシュのアメリカも、テロリストの集団も、対話よりも武力を重視した。インテリジェンスの欠如が戦争に走り、罪を犯した。