小学3年生のぼく


 小学3年生のとき中耳炎になったことがある。夜中に耳がずきずき痛み、目が覚めた。母が起きてきてずっと耳の後ろをさすってくれた。
 翌朝、父が仕事を休んで病院に連れて行ってくれた。父の仕事が郵便局だった関係上、逓信病院という大きな総合病院で診てもらうことになった。病院は大阪市の桃谷にあった。住んでいた家が南河内郡藤井寺という田舎町だったから、電車で阿倍野橋駅まで出て、省線に乗り換え、桃谷駅で降りて病院まで歩いた。
 戦争が終わって、まだ1年もたっていなかった。アメリカ軍のB29による大空襲があったのは前の年の3月だった。大阪市内の中心部はことごとく焼尽に帰した。ところが病院は一面の焼け跡の中にすっくと立っていた。6階だったろうか7階だったろうか、病院の白いビルは無傷だった。
 耳鼻咽喉科で診察してもらうと、すぐさま医師は金具を耳に入れて化膿していたところにプスッと突き刺した。膿が出た。治療はそれで終わりだった。
 帰りは、省線に乗らずに天王寺まで歩いた。二駅だったから、歩いてもしれているし、電車賃の節約にもなる。焼け跡のなかを一本の道路がしろじろと続いていた。路面電車の走っていた道路は、車も通らず、人の姿もちらほら見えるだけだった。歩道を歩いていくと、横を黒々と焼けた家の跡が続いた。四天王寺は被害をまぬかれていたはずだが、記憶にない。その近くまで来たとき、父が小さく叫んでズック靴の片足を上げた。太い釘が一本、靴底を突き抜けて足裏に突き刺さっていた。父は、痛さをこらえながら、釘を引き抜き靴をぬぐと、足の裏に開いた穴から血が出ていた。父は釘を焼け跡にぽんと投げ捨て黙ってまた歩き出した。
 病院へは数日通うことになった。学校は休んだ。翌日、ぼくは一人で病院に向かった。電車はいつも満員だった。ぎゅうづめの中を乗り込んでくる人に押されて、車両の前の壁を両手で押して体を支えた。電車が揺れるたびにバランスが崩れそうになる。ぎっしり詰まって、ぼくに体をくっつけてくるのは母と幼子だった。そのお母さんは、子どもに麦飴の一本を渡すと、もう一本をぼくの方に差し出した。ぼくは黙ってそれを受け取り、口に入れた。ぼくはお礼の言葉を言わなかった。言うのが恥ずかしかったのか、あまりに内気すぎたから言えなかったのか。
 病院で耳の中を消毒してもらうと、病院の玄関を出て、門に向かった。門には守衛のいる小さな建物があった。その前に、何か落ちていた。近づくと十円札、お金だった。お金だと気付くと、ぼくはそれを避けるようにして通り過ぎた。拾うことは悪いことをすることのように思えた。かがんで拾えば、守衛にとがめられる、誰かに見られるとよくない、そんな不安が頭をかすめて、拾う勇気が湧かなかった。家は貧しい。ぼくはそんなお金を持ったことがなかった。後ろを振り向き、コンクリートの上にお金のあるのを見ながら。門を通り抜けて帰ってきた。家に帰ったぼくはそのことを母に言った。母は、「拾ってくれば助かったのに」とつぶやいた。ぼくはそれを聞いて、自分には拾う勇気もなかったなと、少し悔やむ気持ちになった。
 三日目、電車を降りて阿部野橋駅から天王寺駅の改札へ歩いていくと、靴磨きの少年たちが並んで客を待っている。靴磨きの一人の少年の靴台に足を置いた若者がいた。その男を見ながら通り過ぎようとして、見覚えのある顔だなと思った。あっ、中西だ。とたんに叫んでいた。
 「なかにし!」
 男はぼくを見た。
 「おう!」
 彼はぼくを覚えていた。なのにぼくは、話しかけることもせず、中西を置いて改札に向かっていた。やっぱり一歩そこから踏み出せなかった。中西、ぼくは呼び捨てにしていた。藤井寺の我が家の前に大きな池が三つあり、その池の間にバラックがあった。数人の兵隊がその兵舎のようなバラックにいた。戦争中だった。中西は、十代の新兵なのか、補充兵なのか少年兵なのか、よく分からない。キャタビラの付いた牽車というのを操縦していることもあった。数キロ先には飛行場があったから、その関係の施設なのかもしれなかった。
 中西はぼくをかわいがった。学校から帰ってくると、ぼくはそこへ遊びに行った。
 「なかにしー」
 呼び捨てに呼んで、バラックの中に入った。中西はとがめなかった。中西とぼくはよく話をし、遊ぶこともあった。なんだか彼は友だちのようだった。ぼくが庭の柿の実をもっていくと、中西は池で釣った雷魚をさばいて切り身をお土産にくれた。一度牽車に乗せてくれたこともあった。
 戦争が終わり、中西は自分の家に帰った。どうなったのか小学生には分からなかった。その中西が靴磨きの少年に靴を磨いてもらっていた。
久しぶりの邂逅だったのに、ぼくは話ができなかった。照れくささ、気恥ずかしさ、なんだか分からない。
 ぼくは弱気な小学生だった。
 ぼくの耳は完全によくなり、もう病院へは行かなくなった。