奇跡を祈る


 兄が入院し、容態が悪化しているという電話が甥からきたのは先週だった。数日前まで元気に働いていた兄なのに、突如敗血症にかかり、内臓の機能が壊れていっている。土曜日朝から、病院近くのホテルを予約し、すぐに電車に乗った。久しぶりに乗る大糸線は一時間に一本しか走らないから、乗客は混んでいた。座席のほとんどは外国人で占められている。白馬村のスキー場で楽しんできたオーストラリア人たちだった。彼らは車窓に広がる安曇野の風景を眺めている。車内はなんとなくヨーロッパの鉄道の光景を彷彿させた。ぼくはザックを背に、吊皮を握って目をつぶり揺られていたが、松本の三つめの駅辺りで目を開いたとき、少し離れたところに座っていた一人のレディがぼくの顔を見てニコッとほほえみ、席を立った。「どうぞ座って」と身ぶりで伝える。とっさにぼくは「ノーサンキュウ」と小声で笑いながら答え、また瞑目した。親切なオーストラリア人、おじいさんに席を譲ろうとしてくれたのだ。
 松本で乗り換えた特急しなの号では座れた。木曽路は、雲が垂れこめ、雪がまだ谷筋をおおっている。ザックに本を二冊入れてきていたが、読む気がしなかった。お昼弁当にスーパーで買ってきたおにぎりを食べると、またぼうっと窓から外の陰欝な景色を眺めながら木曽を通過した。美濃路に下りて名古屋が近づくと景色は一変した。ところどころの畑のなかに緑や黄色の作物が春を告げている。天候は雨模様だ。
 新幹線で京都まで行き、近鉄線で橿原に向かう。なつかしい大和路、西の京の薬師寺の西塔が線路のすぐ近くに見えた。大和八木で下車、駅員に病院の位置を聞いてから、折り畳み傘をさし、少しの痛みを左ひざに感じながら20分ばかり歩いた。
 兄は病院の集中治療室のベッドで眠っていた。全身にパイプをつながれた兄は、一月に電話で話したときとは一変していた。鼻に酸素の管、体からは透析の管、点滴の管、いろんな管が身体と器械をつないでいる。義姉、息子夫婦、弟夫婦、孫が来ていた。みんなはひたすら眠る兄に眼差しをそそぎ、心中で祈るしかなかった。奇跡よ起これ、奇跡よ起これ。
「耳は聞こえているそうよ」
と義姉が言ったからぼくは兄の耳に口を近づけて、
「かっちゃん、聞こえるか」
と呼んでみたが、表情には何の変化もなかった。続いて弟が耳元で声をかけたが同じだった。
「今にも目を開けて、何か言いそうやね」
と義姉が兄の脚をさすりながら言った。一週間前までは、家の庭に建ててあった納屋の修繕をしていた元気な兄だった。どこでどうして菌が体内に入ったのか分からない。兄の顔は元気な時のままだ。
「みんな、そこに集まって何してんのや」
と、ぼくが兄の口真似をしたら、みんなが笑った。弟の嫁が、持って来たお守りを枕元に置いた。血液内の菌が消えて、打撃を受けた内臓が回復することができるならば、奇跡的に回復する。しかしその菌の特定に二週間もかかるのだという。菌が特定できなければそれに合った抗生物質を打てず、病状は急激に進んでいる。
 奇跡を祈るしかなかった。しかし「祈る」と言うが、自分は祈る神をもたない。神に祈るのでもない。仏に祈るのでもない。ただ心の中で、偉大な自然の力に祈るしかない。兄の生命力に期待するしかない。この「祈り」は、焦点のない漫然とした希望の称名であった。
 許された面会時間いっぱいまで、その部屋にいた。夕方6時前、面会時間終わり。病院のカフェでみんなでおしゃべりをしてから弟夫婦の車で橿原神宮前のホテルへ送ってもらった。雨がまだ降っていた。夕食は駅の構内に出している店まで出かけて、折に入った寿司を買ってきて食べた。冷えたご飯は硬くなりかけていて、一人わびしい夕食だった。
 翌日曜日、学園前に住んでいる、奇跡的に命を取り留めた友人に電話をかけ、
「今奈良に来てる、今から顔を見に行くぞ」
と言うと、
「こんでもいい、こんでもいい」
と、昨年暮れからと同じ返事だ。こんな姿を見せたくない、という気持ちらしい。
「せっかく近くに来てるんやから、そんなこと言うな。顔見るだけや」
そう強引に言って、出かけた。
 学生山岳部時代からの岳友、頸椎を損傷したのは40年も前のことだが、その後残った右半身のマヒをトレーニングで克服して生きてきた。ところが昨年冬に、手術がきっかけで血管内に菌が入り、余命は12月までと医師から告げられた。ぼくはそのことを奥さんから聞かされ奇跡を祈っていたが、彼の生命力は強かった。持ちこたえた命は年を越え、今リハビリ段階に入っている。
 駅から市内循環バスに乗り、昔の記憶をたどって、彼の家について呼び鈴を押すと、奥さんの元気な声がした。玄関に入ると、ひやー、目の前に彼はニコニコ笑って立っていた。
「ようっ、ようっ、えーっ、元気やないかあ」
 目を疑うばかり、血色のいい顔色、彼は歩行器をもってすくっと立っている。
「この廊下を一日に40回ほど、行ったり来たりして、足の筋肉を鍛えているんですよ」
 と、奥さん。短い廊下だけれど、そんなトレーニングができるまで回復したのだ。学生時代に「猪突猛進」のニックネームをぼくは彼に付けていた。そんな男だ。彼はその底力を発揮して、奇跡的な回復を遂げていた。居間に案内され入ると、椅子の上に、雑誌、単行本が置いてあった。
「読んでるんか?」
「うん、読んでる」
 奥さんは、この「猪突猛進」に50年沿い続けてきた。
 ぼくは我が兄の症状を伝えた。
「兄は血液内に菌が入って全身に回ったんや。」
「それオレといっしょや」
 彼は叫んだ。兄にもこのような奇跡は起こるだろうか。
 彼は一つピークを越え、次の目標に向けてリハビリを続けている。友の奇跡は起こった。
 ぼくは兄の奇跡を今祈る。偉大なる自然治癒の生命力に、祈る。

 友の家を退出して、まっすぐ京都経由で信濃に帰ってきた。夕方の大糸線の、大町行きの電車は、白馬へ向かう外国人が前日と同じように多かった。ぼくの左隣にオーストラリア人の若い女性が座った。その左隣には、日本人の地元のおばあさんが座った。80歳ぐらいに見えた。電車が動き出した。すると、おばあさんが女性に英語で話しかけた。女性が応え、二人は英語で会話をはじめた。コトンコトンと走る電車の中で、二人の英語がとぎれとぎれ聞こえてくる。このおばあさんの、達者な英語力、ひゃあ、たいしたものだ、とぼくは感嘆していた。途中の駅で、「ではね、バイバイ」と、おばさんは下りていった。