社交ダンス

 1945年に戦争が終わって、2、3年たったころ、ぼくの住んでいた南河内の田舎の町にも「社交ダンス」が入ってきていた。
 お寺の前の民家の一階が改装されて、社交ダンス場になり、音楽がかかっている。のぞいてみたら、玄関入ったところの、6畳か8畳の部屋で、数組の若い男女のカップルが体をくっつけて踊っていた。子ども心に、なんだか変なもの、恥ずかしいものを見たという感情が湧いた。
 小学校6年になると担任は北西先生だった。戦時中は鬼軍曹のように子どもたちから恐れられていた。子どもたちはファシストという言葉は知らなかったが、恐れの感覚はそれに似ていたように思う。北西先生は戦争が終わると一変した。怖いけれど、おもしろい先生になった。自由の雰囲気の中で社会風俗が急激に変化していく様子をおもしろおかしく子どもたちに話した。
 「ダンスバッテン、やってるな。知ってるか? 男と女、くっついてるやろ」
 ダンスパーティを北西先生はダンスバッテンと笑いながら言った。子どもらはケラケラ笑った。
 杉浦明平(作家、評論家)が、そのころのダンス熱について書いている。
 「田舎にいたわたしはついに無縁だったけれど、ダンス熱が一世を風靡したことがある。日本共産党も、文化政策の一端として働くもののダンスパーティを催したりした。うわさによると、ひろし・ぬやまの提唱だったとかだが、あの灯の乏しく、乗り物の不便な夜でも、会場の公会堂は満員で、兵隊服や国民服にズックや兵隊靴の男たちが、モンペからスカートに着替えたばかりの、栄養のわるい女たちと不恰好に、しかしかなり楽しげというより真剣に踊っているのをわたしも見学したことがある。野間宏もわたしの見学していた踊りの渦の中にいたはずだが、どんなふうに踊っていたのか、記憶に残っていない。ただ、彼の小説にいくらかそのダンスパーティのことが書かれているし、『孤立せる肉体からの解放――働く人のダンスパーティを見る』という短い文章も見る。」
 あの酷烈な破壊と困窮の日本で、社交ダンスを踊る人たちが、戦後すぐに田舎にも生まれていたということは、何を物語っているだろうか。
戦争が終わると同時に、劇的な変化が起こった。政党、労働者団体が動き出す、芸術家が創作を始める、スポーツが立ち上がる、登山家たちは山に登り始め、冬の北アルプスを縦走するパーティも出てきた。新しい教育の研究が始まる、科学者が新たな研究に没入する、混沌の中に澎湃として起こってきた自由のうねりだった。
 戦争と死の暗雲が消え去り、自由は精神の解放をもたらした。焼け跡のバラック小屋に住みながらも、希望が生まれた。「ほしがりません、勝つまでは」と耐え忍ぶ戦時生活から解放されると、人は急激に変化し、その現われが田舎の町のダンスパーティだった。

 9年前のことだ。あのときの彼らにはもう逢うことはない。今どこで何をしているか分からない。でも彼らとの濃密で純な心の通いは忘れることができない。
 中国・青島(チンタオ)、ぼくは中国労働部の研修所で青年たちに日本語を教えていた。彼らは地方の農村の青年たちだった。もっと暮らしをよくしたい、将来に備えたい、そう考えた彼らは日本に行こうと夢見ていた。
 毎日夕方になると、研修所近くの公園にはたくさんの市民が集まってきて、踊ったり剣舞をしたり、いろんな運動をしていた。中央広場では、五十組ほどの男女が、外灯の薄明かりの下で社交ダンスをしていた。
 学校での夜の自習が終わる八時半、研修生たちは公園を通って寮に帰る。ぼくはクラスのみんなの自習に付き合い、ハン君たちみんなと一緒に寮に帰った。ハン君は農家出身のがっしりした体格の男だったが、純朴そのもので、いつもぼくにくっついてきた。彼は社交ダンスが好きで、ダンスを見ると心が躍る。けれどもパートナーになってくれる人がいない。あるとき、若いきれいな女性がダンスを見ていた。ぼくはハン君にけしかけた。あの人を誘って踊れ。
 彼は照れてはいたが、踊りを申し込み、二人は楽しげに踊りだした。実にみごとな踊りっぷりだった。
 彼らの日本語研修が終わると、ぼくは彼らと別れて日本に帰った。その後彼らは日本にやってきたが、再び逢うことはなかった。
 あのときのみんなは、日本の企業で研修・実習を3年間やりとおし中国に帰った。今中国でどのように生きているだろうか。
 青島で一緒に暮らした彼らの胸を占めていたのは、希望だった。戦後の日本で見たのも自由と希望、そしてその後日本の社会は大きく変化した。
 社会が大きく変化する。世界も大きく変化する。そのなかで、人はどのような希望を求めて生きているのだろう。

 日本では、社交ダンスは庶民の生活の中に根付かなかった。