山靴の話



 浦松佐美太郎は、青春時代スイスで過ごした。
 1901(明治34)年生まれ。大正時代から昭和の初めにかけて、ロンドンに留学した浦松はアルプス登山に熱をいれ、西山稜からのウェッターホルン初登頂に成功している。ぼくは彼の随筆「たった一人の山」を、登山に熱中していた青年のころ読んだ。その後、この本は遠く去っていたが、老いてからまた古本を見つけ、手に入れた。ぼくはぱらぱらページを繰ってみた。が、文章のほとんどに記憶が残っていない。「穂高・徳沢・梓川」のエッセイはいくらか記憶に残っている。上高地開山祭の折、梓川の水の描写を思いだしたものの、他にどんなエッセイがあったかなとふと思って、今日、本棚の片隅から「たった一人の山」を引っ張り出した。やはり記憶のないスイスでのエッセイではあったけれども、読み返せばまたよみがえるものがある。スイスの山や村や人は、不思議に懐かしく、切なく、老いてもなお憧憬の念のむくむく湧くのをおぼえる。
 「山靴」というエッセイがある。
 「ヴァン・ゴッホの絵に、古い編み上げの靴をただ一足だけ描いたのがある。古く履きなれた靴を床の上にそろえて置いて、テーブルにほおづえでもつきながら、しみじみ眺めているといったような絵である。
 私はこの絵を、スイスの古都ベルンで見た。アルプスの氷河に源をもつアーレの急流を、何十メートルの断崖でさしはさんで、ベルンの町はその両岸に立ち並んでいる。紺碧の急流が、谷底の岩に、真っ白な泡を立てて流れる音が、ざわざわと聞こえる断崖の端近くに建てられた美術館の中で、この絵を見たのであった。
 アルプスの山から山への旅を終えて、山靴を初め、三十メートルにも余る登山綱(ザイル)や、かんじき(アイゼン)など、もろもろの山の道具で、ふくれあがったルックザックを背負って、山の奥からベルンの都に出てきた真っ先に聞いた都の便りが、ゴッホの絵の展覧会であった。早速出かけた会場で、いちばん先に目に着いたのが靴の絵であった。いかにも親しみのこもった愛着の心で描かれたこの靴の絵が、山靴を大事に思う自分の心を強く揺り動かしたのであろう。
 描かれている靴は、山靴ではないが、頑丈な底の厚い百姓靴であった。それもすっかり履き慣れて、ひもから革のしわまで、どの線も親しい丸みにおおわれているような、楽しい靴の絵であった。私は今でも自分の山靴を、床の上に眺めると、ゴッホがあの絵を描いた気持ちが思われてならない。
 身に付けているものには、だいたい愛着心が起こるものであるが、ことに山登りに使ったものには、生死を共にしたという感情が加わるだけに、その心持がいっそう深くなる。」
 そこから浦松は、身に着けていたものでも服や帽子よりも山靴に強い愛着心を抱いたと書いている。それは登山をやってきた者なら共通する思いかもしれない。彼が履いていた山靴は、鋲を打った靴であった。ぼくが山を始めた1955年ごろは、まだ鋲靴を履いている先輩たちがいた。その靴を履いて都会の道路を歩くと、カッカッ、カリカリ、カンカンと勇ましい音を立てた。山へ発つ日、その音を聞いただけで、身が引き締まる思いがした。ぼくの最初の北アルプス剣岳登山は17歳、靴は運動靴だった。18歳の白馬岳と槍穂高縦走は布製のキャラバンシューズだった。その後大学山岳部に入って、最初の四月の富士登山は先輩から借りたアメリ進駐軍放出品のごっつい革靴だった。ちょうどそのころを境に、イタリア製のビブラム底の山靴が主流になり、アルバイトして買った山靴がぼくのその後の山生活となった。厳冬期の北アルプスでは、テントの中で、これまたアメリカ軍の放出品の巨大寝袋に靴も入れて寝た。

 甲革の部分に保革油を塗り、手入れを怠らず、強い愛着心を抱いた山靴、浦松も自分の山靴についてこんな風に書いている。
「私の山靴は買ってからもう十五年になる。今ではどんな所に置いても、一目で自分の靴と分かるようになってしまっている。靴の底も、初めの間は、厚い革を五枚重ねて縫い合わせてあるのがはっきり分かっていたが、今では、一枚の厚い革のようになっている。しかもトリコニー鋲を打ってあるので、鋲のまわりの底革だけが出っ張って、その他のところは一分以上も凹んでいる。ずいぶん激しく使ったものだと思う。靴の表の方はもっとひどい。刃のように鋭い岩角や氷の先に切られたえぐり傷が、靴の先にも横にも、一面に深く残っている。その傷の切れ口も、雪や水に洗われて、すっり丸みを帯びている。十五年の靴と言えばたいへん古い靴だが、しかしびくともしていない。四千メートルの峰々の岩や氷の間を、激しく歩いてきたために、革は固く引き締まり、しかも靴の形は足にすっかりなじみきっている。いざといえば、いつでもすぐさま、どんな山へでも向かっていけるだけの立派な靴である。
 日本アルプスの先駆者ウエストン老人と、スイスの山村で出会ったある日、老人と連れだって、氷河へ遊びに行ったことがある。その時、老人は古い山靴をはきながら、きょうは戦闘艦の出動だと、冗談を言っていた。山靴はいかにも靴の中の戦闘艦だ。古く慣れた山靴は数多い闘いを経てきた、殊勲の戦闘艦である。山靴を戦闘艦だと言うのは、ものものしく鋲を打ちつけた、その厳しい形からばかりの比喩ではない。山との激しい闘いに最も大事な役目を司るのが靴だからである。風雪に削られた山に岩は、実に手荒く残忍なものである。激しい岩登りになれば、上着やズボンが擦り切れてしまうことがある。そんな場合にも、足に傷一つつけず、安全に切り抜けていくのが、山靴の役目である。」
 浦松佐美太郎は、その山靴で登った山々のことを書き綴ったあとに、こんなことを書き残している。
「私の山靴は、今のものは二代目である。最初の山靴は私がヨーロッパへ行くときに人にくれてしまった。その山靴にも、おもしろい思い出がある。東京の震災のとき、余燼のまだくすぶる中を、その山靴をはいて縦横に歩いたものであった。普通の靴では及びもつかないような威力を発揮し、焼け跡の灰にまみれた靴を眺めながら、自分でも満足したものであった。
 もし私に、ゴッホのような絵が描けるなら、私の山靴の姿を写し、そしてもし、富士山を詠った赤人のような山の詩が書けるなら、私の山靴の登った数々の山の詩を書き連ね、その功績に報いるために一巻を贈りたいと思う。」