歴史の授業「学徒出陣」の教材・資料


 ぼくの学んだ中学校、高校の歴史教育は、不毛だった。その時代の人びとがどのように生きていたか、何を考え何を思っていたか、どうしてそういうことが起こったのか、などに迫る授業こそが歴史から学ぶことなのに、授業は出来事や政権交代の陳列に過ぎず、歴史の授業から学んだことは何だったか、さっぱり思い出せない。
そういう空洞化した授業は現在も多くの学校で行なわれていることだろう。資料を研究し過去を想像する、そういう学究的授業こそ未来に生きるものであるのだが、相も変らぬ断片的知識である。
1943(昭和18)年の「学徒出陣」、これも学校の授業にまともに登場したことがない。
70年前の10月21日、明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で壮行会が行なわれた。そのシーンは、ときどきテレビに登場する。どしゃぶりの雨の中、学徒は銃を肩に行進している。行進曲は、西南戦争の時の「抜刀隊」をモチーフに作られた曲である。数万の女学生の観衆が見送っていた。湧き起こる「海行かば」の合唱、地の底から盛り上がってくるような悲壮感、生きては帰ってこれない、学なかばで戦場に送り出されていくものたち。
彼らの表情をぼくはその都度凝視する。その学生の心の中を汲み取りたいと思う。

「若き日の詩人たちの肖像」(堀田善衛)は、自伝的小説で、その長編の最後のほうに主人公の目撃した「学徒出陣壮行会」の描写がある。主人公は、「男」と表現されている。作者自身である。

<だんだん雨がひどくなるなかを、少し外苑を散歩することにして競技場に近寄って行くと、突然競技場の中から歓声のようなものがひびいてきた。競技場の周辺には憲兵がやたらに立っている。
傘をさしベンチに腰を下ろしていると、吹奏楽による君が代が聞こえて、それがすむと拡声器による号令の金切り声が雨空に急上昇していく。そうして誰かが独特の抑揚でもって演説をはじめる。言わずと知れたことで、あの特徴ある東条総理大臣のものである。‥‥
競技場からは吹奏楽を伴った男女の大合唱による、荘厳な「海行かば」が聞こえてきた。
海行かばみづく屍(かばね) 山行かば 草むす屍
男も思わず立ち上がって、気ヲツケの姿勢になり、歌いだしていた。雨はどしゃ降りというに近くなっている。いったい競技場で何が行なわれているのか、男には見当がつかなかった。十万も、もっとそれ以上も人びとが集まっているような気配である。大合唱が終わると、天皇陛下万歳の三唱があり、つづいて歓声とも悲鳴ともつかぬ、とにもかくにも大変な男女の声が雨雲に暗い空に響いた。
競技場の入り口辺りから行進が町に出始めたらしかった。行進は学生たちのものであった。先頭に出てきたのは、白い清楚な校旗を掲げた東京帝大の学生たちで、一斉に銃剣をつけた銃をかついでいる。それが何か葬式歌のような歌をうたって行進をしてくる。帝大の校歌であるらしかった。帝大の長い列が半分ほど通り過ぎたころに、別の出口からあふれ出てきたらしい大量の女学生が、口々に何かを叫びながら行進の道の両側に殺到してきた。男は何度か突き飛ばされて、はじめてこれが出陣学徒壮行大会であったことに納得がいった。行進していく学生たちは、いずれもみな唇をかみ、顔色蒼白に緊張している、と見えた。法文系は一切廃止されてしまい、全部が全部、丙種不合格までが一斉に十二月一日に入営することになったのである。男の眼に涙があふれてくる。降りしだく雨の中に、口々に叫びをあげながら駆けて行くすべての女学生たちの眼からも、たわわに涙があふれていて、彼女らは泣き、そうして何かを絶叫しながら、行進していく大学生たちの列のあとを、水しぶきをたてて追ってくる。濡れた頬に髪の毛がはりついている女の子がいる。なかには道に転んで、そのまま濡れたアスファルトの道を、平手でたたきながら泣いている女の子もいる。男がいたK大学の学生たちも、青赤青の三色の校旗を先頭にして、野球の応援歌を歌いながら粛然と進んでいく。なかに顔見知りの仏文科の下級生もがまじっていたが、男は声をかけなかった。彼らにものを言う資格が男にはないと思う。その資格ができるのは、召集が来てからである。涙がとめどもなく、本当にぼうだとあふれてくる。しかも、その涙の奥から、いったいこういう学生たちまでを、自身もそうであったが、学業中途で、とにかく大学課程三年の約束のはずなのに、たったの一年八ヶ月で、なかには学生生活がたったの三ヶ月というものもいるはずであって、こういう学生たちまでをお召しだのなんだのという美辞麗句を弄して駆り出して、いったい日本をどうしようというのだ、というどこにもぶつけようのない怒りがこみ上げてくる。親たちはそういうつもりで子を育てたのではなかったはずだ、と思う。これではまるで子どもたちが大人どもの代受苦(苦しみの身代わりのこと)に使われるようなものだ。‥‥
学生たちがみな行ってしまうまでに、一時間はたっぷりかかった。何万人という人数だったと思う。彼らの行く先は、おそらく宮城前なのであろう。>

「若き日の詩人たちの肖像」(堀田善衛)の、壮行会の描写である。
出陣学徒の中から特攻隊員が選ばれ、つぎつぎと戦場に散っていった。兵役についた学徒の総数は数万〜13万人といわれるが、正確な数は今もわからない。多くの資料が失われたためである。
先日、朝日新聞に特集された記事の中に、次のようにあった。

<太平洋戦争の戦局が悪化していた1943(昭和18)年、徴兵の延期が認められていた学生たちが兵隊に召集されることとなった。「学徒出陣」である。壮行会は、10月21日、明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で行なわれた。学徒を送り出したのは、約50の大学と約200の旧制専門学校旧制高等学校師範学校である。学徒兵は銃を携えて行進。数万の観衆が見送った。あれから70年が経つ。学徒兵の総数も戦没者数も、今も定かではない。大学が主体となって戦没者名簿をつくっているのは東京、京都、早稲田、中央など十数大学というが、史実を若い世代に語り継ぐ活動も始まっている。
 早大は今春、「ペンから剣へ―学徒出陣70年―」と題した企画展を開催。法政大は昨年、出陣学徒の人数の再調査を始めた。京大は全学共通科目「京都大学の歴史」で学徒出陣に触れている。東大も来月、講演会「学生とともに考える学徒出陣70周年」を開く。>