山を愛する人に贈る <中西悟堂の山旅の記録・昭和18年>

 悟堂さんは1943年(昭和18)も北アルプスに登った。
 1943年(昭和18)の戦況は、
   2月 日本軍、ガダルカナル島から撤退開始。
   4月 山本五十六連合艦隊司令長官戦死。
   5月 アッツ島守備隊玉砕。
   10月 学徒出陣、神宮外苑で学徒壮行大会。
   11月 マキンとタラワの守備隊玉砕。

 このような時勢であったが、悟堂さんは、烏帽子岳から槍ヶ岳まで縦走している。7月27日、葛温泉から登り始め、道中で出会った鳥や植物を記録している。記録に出てくる小鳥の名前は、
カケス、キビタキオオルリ、、キセキレイコゲラ、ウグイス、カワラヒワキクイタダキシジュウカラアマツバメヤマガラ、メボソ、コマドリホトトギス、ヒガラルリビタキゴジュウカラアカゲラ、ウソ、イワツバメ、カヤクグリ、ジュウイチ、ホシガラス‥‥
 実に豊かだ。さすがは日本野鳥の会創立者。悟堂さんは目にした植物の名前もたくさん記録している。
 烏帽子小屋で悟堂さんは朝食に粥一椀と梅干一つを食べ、三ツ岳に登った。悟堂さんは詩人で歌人でもある。そこでの描写は美しい。

 <塵寰(じんかん・俗世間のこと)隔絶の天然の園であった。傾斜はなだらかに、展望はのびやかに、風光はあくまで明るく、うねうねと起伏の続くザラ場には、チョウノスケクサやコマクサやイワギキョウが咲き、イワツメグサは所きらわず風にそよぎ、砕石が白光を放ち、起伏のままにほそぼそとつらなる縦走路が、目もはるかに私たちを天の一角へとみちびいてくれる。風化した花こう岩の礫砂地にはビンズイがさえずっていた。岩場には高山鳥イワヒバリが岩を伝っていた。はい松があれば雷鳥がいた。高山蝶も舞いつれていた。私はその蝶に目をそそいだ。そして手帳に詩句を書き留め始めた。

    純なものを
    はかなくて、もろいものを
    美しいものを
    天然の律にしたがうものを
    拾い集める、すなどりびと。

 たたけばボロボロとこわれそうな、まるでガラスか雲母のような明るさながら、恒久で壮大なこの風景! 昼は光が、夜は星々がつどいあつまるところ、隔塵の花や、時間や、鳥のたむろ! それが何千年でもこんな高みに守られて、たといいかに登山者がふえようとも、美しい相続が雲の上に絶えずにいるのを、私は痛いほどの喜悦の心で眺めた。>

 「すなどりびと」とは、漁夫のことである。私は天然の美を拾い集める漁夫だという。
 一行は縦走する。やがて北アルプスのもっとも奥地の山小屋、三俣蓮華の小屋に泊った。物資不足の小屋だと思っていたら、一行は思いがけないもてなしを受けた。焼きイワナ、山三つ葉のおひたし、岳ワラビの味噌汁、ウサギの肉、たいへんなごちそうだった。囲炉裏を囲んでの食事はおいしかった。しかし悟堂さんは自分への約束で、おかゆ一椀、梅干一個ですませた。小屋のおやじが、越中(富山)の人たちは強いという話をした。
 「女でも五十貫は背負って、ぶらりぶらりと立山に登るんだもんなあ。急ぐというじゃねえ。ひょっからひょっから登るだが、それでもあの目方を背負いあげるにゃ驚くね。」
 五十貫というと187.5キロ。ほんまかいな、と思う。
 そして一行は槍ヶ岳に至る。そこからの四方の眺め、悟堂さんは詠う。
 <ああ、それらが膨大な一つの交響曲となって、国土の粋をあつめた一大叙事詩を歌いつれる蒼古の大観! 祖国の人間的治乱をよそに、五箇岩むらの水上とおく、雲の上高く斎(いつ)かれるあまたの岳の大いなる涼しさと威風よ! これこそ我が国土の骨組みであった。いつも民とともにある久遠の座であった。> 

 悟堂さんは「祖国の人間的治乱」と称した。大自然は常に民とともにあった、と言った。そこに彼の思いが込められている。一行が山を歩いているときも、戦場では「敵味方」ともに命を落としている。山から遠く離れれば、人間の愚行はますます激しさを増していた。
 1944年
   2月 米軍、マーシャル諸島上陸。
   3月 日本軍、インパール作戦開始。
   4月 日本軍、大陸打通作戦開始(中国北部より南部へ)。
     朝鮮に徴兵制施行。
   5月 ビルマ戦線で撤退。
   6月 米軍、サイパン島上陸。
     中国から米軍爆撃機が北九州爆撃。
 そして1945年8月へ、連合軍は怒涛のごとく押し寄せ、豪雨のごとく本土いたるところに爆弾を落とし、嵐のように砲弾を撃ち込み、沖縄は焦土となり、広島長崎は原爆によって破壊され、ソビエト参戦、ついに日本は破滅した。悟堂は、自己の人生を通じて、生物界・生命体を破壊する文明、人間の精神を破滅させる文明を厳しく批判した人であった。