人間の耐寒性

 たくさんの被害を撒き散らして台風は北の海に去った。そのあとに、大陸から流入した寒気は真っ白に雪をアルプスにもたらしていた。白馬連峰から爺が岳、燕岳そして常念岳も積雪。
 昨日の教室は体が冷えた。午後5時に学校を出ると、車の暖房をつけて約40分間、家まで帰ってきたが、冷えた体はなかなか温まらない。じわりと低体温になった老体は回復力が弱い。
 一昨夜から毛布を布団の下に入れて就寝している。快適さがちょうどだ。暑さ知らず寒さ知らずだった体力はすっかり衰えた。
 1957年、初めて北アルプスの冬山にはいったときは、羽毛服なんてなかった。それでもマイナス30度のなかを行動した。その時は、昔からの桐灰懐炉を持っていった。就寝のとき、仲間は最新のハクキン懐炉、ぼくは昔ながらの桐灰、ウインパーテントのなかで火をつけてフーフー息を吹きかけると、火の粉が飛び、においがテントの中にたちこめた。桐灰カイロは今は貼るカイロが主流になっている。それ以後冬山に懐炉を持っていくことはなかった。
 今は何もかも、服装もテントも進歩し、分厚い羽毛服が寒気を防いでくれる。現代の登山家はすごい先端技術装備だ。軽量化し、雨、雪、寒気を防ぐ装備もそろっている。
 昭和初期に活躍した、単独行の超人・加藤文太郎は、テントを持たず、油紙で冬の雪の中でも寝た。ありあわせの服装をし、高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登った。専ら単独行で日本アルプスの数々の峰の積雪期単独登頂をめざし、槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独縦走をしている。
 1928年、日本初のロック・クライミングを目的とした山岳会・RCCを創った藤木九三のこんな文章がある。

 <加藤君の創意による一発見?として仲間を驚かしたのは、睡眠と凍死に関する従来の定説を根底からくつがえした理論だった。同君に言わせると、吹雪に行き暮れた場合など、なにか暖かい飲み物でも持っておればそれを飲み、眠たかったら雪の中で眠ればよい。決してそのまま凍死するなんてことは考えられない。死ぬる前にはきっと一度は目が覚める‥‥というのである。もちろんこれは眠る時間の問題に重大な関係があり、精神的にも、また肉体的にも一歩も歩けないというまでに疲労し切っていては駄目であるが、加藤君の理論は、そうした場合などむやみに雪の中をもがきまわったりする暴挙をつつしみ、いまだ充分体力に余裕があるうちに眠れというのである。そして同君は、事実このことを先年氷ノ山から扇ノ山にかけての縦走に際して体験済みである。当時吹雪に行き暮れた加藤君は、やむなく吹きさらしの尾根筋で一夜を明かさねばならぬ羽目におちいった。そして幻影に悩まされながらも、ぐっすり寝込んでしまった。
 そして翌朝なんだかまぶたが明るくなった気がしたので、はっと眼を覚ますと、太陽がきらきら耀いていたというのである。‥‥
 「不死身の加藤」といわれた一例にこんなのがある。現に某大学のリーダーをしているK君がわたしに話したのだが、かつて三月の穂高を志して横尾の岩小屋を出て山にかかると、なんだか雪の中に黒いものが横たわっている。縁起でもないと思いながら近寄ってみると、それは確かに人だと分かったが、てっきりまいっているものと思った瞬間、顔の頭布をとって「ああ、夜が明けたか」といってむくむく起き上がったということである。>

 文太郎は、1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑んだ。その途中、猛吹雪に遭い、30歳の生涯を閉じる。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。
 単独行では不死身の超人、文太郎も、北鎌尾根で逝ってしまった。