「歌集 小さな抵抗  殺戮を拒んだ日本兵」を読む<1>

 「歌集 小さな抵抗  殺戮を拒んだ日本兵」(渡部良三 岩波現代文庫)を購入して読んだ。このような歌集があったことをぼくは知らなかった。新船海三郎君の労作「戦争は殺すことから始まった ――日本文学と加害の諸相」(本の泉社)を読まなかったら、渡部良三のことは知らないままでいるところだった。重要な欠落だと思う。
 渡部良三は学徒出陣で出征し、中国河北省の部隊に二等兵として配属された。そこで捕虜虐殺を新兵の訓練として強いられる。渡部良三はそれを拒んだ。そのあとに始まる凄惨なリンチ。渡部の生きながらえたのが不思議に思える。他の兵たちが力に屈して従う中で、渡部良三はどうして拒否を押しとおせたのか。その抵抗の精神、力はどこから出てきたのだろう。
 歌集は、十八の章からなっている。その中に「学徒動員」の連作がある。いくつか歌を抜き出してみる。

   強いらるる死をし否みて学友(とも)と語る救いなき時代(とき)の生きるすべなど

 学徒動員と言って、どうして我らは出征による死を強制されるのか、逃れるすべなきこの救いのない時代をどう生きればいいのか、学友と語り合っているのだ。天皇軍国主義体制には抗いようがなかった。


   いつの日か戦争(いくさ)の終えて気ままにももの言うことのかなう世も来む

   かけがえの無きものいまし捨てんとす滅亡(ほろび)の道と知りつつもなお

   荒声に「長髪を切れ!」軍刀にわれをしこづく配属将校


 兵士は坊主頭になる。軍刀でこづいて命令する配属将校。配属将校は学校・大学に配置され軍事教練を担当した。学生たちは自由にものを言うことができなくなった。
 渡部の抵抗の精神は父母の支えが根底にあった。「生きて還れ、死ぬな」「父もまた反戦を生きる」と良三に伝える親がいた。
 


   声細め生命(いのち)いたわれと言う母の瞳に雲も雪も映れり

   反戦をいのちの限り闘わむこころを述ぶる父の面(おも)しずか

   「子の征(ゆ)きて生命の保証(あかし)またく無し」祈るほかなき傷(いた)み父言う  

   「子よ死ぬな生きて還れ」と父言いつ逃れ処(ど)のなき征(い)でたちの夜に
 
   汝(なれ)のごとく冷めてもの認(み)る兵もあれ非戦の父はうべないにけり


 父の言葉は、軍隊のなかでの良三の生き方に影響を与えた。それは重く大きな言葉であった。「お前のように冷静にものを認識する兵も必要なのだ」と、非戦論の父は良三の生き方を肯定し、軍隊でもそれを貫くことを望んだ。 


 この歌集で解説を書いている今野日出晴が、こんなことを書いている。


 「出征直前、良三は父弥一郎と旅館で数時間過ごす。弥一郎は良三に対して、
『一介の兵士として、人間として、神様の御心にかなう行動をする余地があるはずだ。それを知るためにも、常に胸を開き神様に祈ることを忘れないでくれ』と諭したという。良三には熾烈な戦場が待ち受けており、そして弥一郎は、同年、無教会主義キリスト者として、治安維持法違反の嫌疑で逮捕されることになる。父子に訪れるであろう過酷な運命を知るがゆえに、最後の別れを過ごす。……」

 
 良三は、どうして日本国家を貫いていた圧倒的な価値観を相対化することができたのか、このことについて今野が続ける。それは良三が戦後繰り返し語った父のことである。


 「『朝食の時に、捕虜刺突を告げられてから拒否するまで七時間、殺人なんて拒否するのが当たり前というキリスト者至上命令を子どもの頃からしつけられ、わかっていても、堂々巡りであった。その時に、痛切に思ったのは、親父がいてくれたらということであった。二十二歳にもなった男が、父親を求めていた。父であり、牧師であり、教師であり、友人でもあった。情ない姿を露呈してしまった。いくじなしであった』。
 ここで希求されていたのは、価値規範としての<父親>の存在であった。<父親>が体現している規範と、日本及び軍隊という共同体の規範との葛藤が激しく心を責めたてるゆえに、『情けないくらいに』<父親>を求めていた。<父親>が体現している規範とは、内村鑑三以来の無教会主義のゆるぎない信仰にもとづいたものであった。」


 父弥一郎は、良三が出征する前夜、内村鑑三の言葉を贈っている。

 「事に当たり自分が判断に苦しむことになったなら、自分の心を粉飾するな、いっさいの虚飾を排して、ただひたすらに祈れ。神は必ず天からみ声を聞かせてくれる。」
 
 そして良三は、刺突を前に祈り始める。ただ一言、
「神様、道をお示しください。力をお与えください。」
 そのとき、良三の体に激痛が走り、「虐殺を拒め」という神の声を聞く。歌集の最後に掲載されている講演記録がその詳細を語っている。