「中国激動 さまよえる人民のこころ」


 録画しておいた「中国激動」というNHKスペシャルを観た。シリーズのその回は「さまよえる 人民のこころ」というタイトルだった。
 共産主義では宗教は否定されてきた。が、現代中国では宗教はある程度認められている。経済成長が著しい中国で、今何が起こっているか、報道は宗教に救いを求める人々の姿と心を追っていた。
 文化大革命の時代には「批林批孔運動」が吹き荒れ、孔子儒教は大弾圧された。ところが今、孝行、思いやりなど、孔子の教えを子どもたちが学び、孔子の教えを生き方にしようとする人が増えているという。キリスト教も信仰者が増えて、あちこちに家庭教会が生まれ、人が集っている。
 大金持ちになった。しかし、自分は少しも心が充たされず、幸せになっていない。そう感じて心の平安を求める人たちは、拝金主義が社会を壊し、人間の心を台無しにしてしまったことに気付いた。金満家になった後、没落を体験し、たちまち親しかった人も離れていったというある女性社長は、キリスト教に入信し、自分の歩んできた人生をキリスト教会の信者たちの前で発表して土下座をする。このような激しい感情の吐露は、日本人にあるだろうかと思う。
 この報道で気付いたことがあった。大衆に向かって「土下座」したそのこと、拝金主義を生き甲斐にしてきた結果、空しい人生だったと気付き、自分の生き方考え方の誤りをざんげしたのだが、それは自らを救うための自らの意志だった。報道の語り手は「土下座」という言葉を使った。大衆への謝罪が含まれていたからだが、神に向かって同じような行為をするときは「ぬかづく」と言う。すなわち額を地面につけて拝むこと、そして仏法の最高の礼法で行なわれる、ひざを曲げて額を地面にすりつける行為は「五体投地」と言われている。行為の形は同じでも、行為の向かう対象が異なり、その目的とするところが違うことによって、言葉も変わる。ぼくは観ていて、あの女性社長の行為を「土下座」と説明したことにいささか違和感を感じた。そこには卑屈さよりも、自分を浄化したい、大衆とつながりたい、祈りの気持ちが感じられたからだった。
 中国社会の矛盾は、アメリカでも日本でも、経済大国の現代社会がかかえる問題に共通する面でもある。報道は巨大な中国のほんの一部分を切り取ったものではあるが、格差社会、差別社会、競争社会、閉鎖社会の側面が人びとをどれだけ傷つけているか、その傷が深ければ深いほど傷を癒したいと思う心が強く作用して、現象に現れてくる。
 苦しみを行動に現わす中国人民の振り幅の激しさに驚く映像だった。行動として出てくる振り幅の激しさは、政府の側からすれば利用するときは強力な助っ人だが、反逆に向かえば、統治がいかに難しいかを示している。

  ルーマニアの詩人がこんな詩を詠った。庶民のささやかな暮らしのなかにある平和、幸せを。



        聖なる歌
             ヨシフ

      夕べにお前を寝かすとき、
      私がいつもうたう歌、
      坊や、それは田舎の
      古い素朴な聖歌なのだ。


      私のお母さんもそれをうたった。
      その優しい歌声に
      小さな私は静まって、
      おとなしく寝ついたものだ。


      今日その歌はお前を寝かせ、
      きのうは私を寝かせてくれた。
      私のお父さんが お前のように
      小さかった時もそうだった。


      明日私が土にかえる時、
      お前はそれを忘れずに――
      子どもたちにこの聖なる歌、
      ドイナをうたってやるのだよ!



  ドイナとは、ルーマニアの農民の、哀調をおびた民謡だと言う。