遠藤周作の小説『沈黙』



高君が我が家に遊びに来たことがあった。彼が社会人になり在日関係の職に就いた頃ではなかったかと思う。
彼は一人で信貴山中腹の我が家にやってきた。
何を話したかすっかり忘れたが、文学の話をした記憶だけがかすかに残っている。
彼が帰途に着くとき、ぼくは一冊の本を贈った。
遠藤周作の『沈黙』だった。
『沈黙』は1966年に上梓され、箱入り上製のその本を買って読んだ感動は大きかった。
高君へそれを贈った理由は特にない。その小説の特異な内容と感動が心にあり、それが読み終えた書のプレゼントになったに過ぎない。
切支丹弾圧の歴史における神への信仰をテーマにしている。
迫害に耐えてきた宣教師が、最後に踏み絵を踏む「裏切り」。なぜ?
主よ、あなたはなぜ沈黙し給うか。
踏みなさい、と主の声が聞える。


「主よ。長い長い間、私は数えきれぬほど、あなたの顔を考えました。
特にこの日本に来てから幾十回、私はそうしたことでしょう。
トモギの山にかくれている時、海を小船で渡った時、山中を放浪した時、あの牢舎での夜。
あなたの祈られている顔を祈るたびに考え、あなたが祝福している顔を孤独な時思いだし、あなたが十字架を背負われた顔を捕らわれた日に甦らせ、
そしてそのお顔は我が魂にふかく刻みこまれ、
この世で最も美しいもの、最も高貴なものとなって私の心に生きていました。
それを、今、私はこの足で踏もうとする。」


「司祭は足を上げた。足に鈍い重い痛みを感じた。
それは形だけのことではなかった。
自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。
この足の痛み。
その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」


恩師フェレイラが、キリシタン弾圧の迫害によって、拷問を受け棄教した。
その報に接した宣教師ロドリゴは、師の棄教を信じることができず、真相を知るべく日本に潜入する。
待ち受けていたものは、過酷な現実であった。
信者たちは捕えられ、踏絵を踏まされ、改宗しなければ虐殺された。
ロドリゴも厳しい取締りの中で捕えられる。
堅固な信仰を持つロドリゴは毅然として取調べに抗した。
しかし、次第に、拷問され火あぶりにされるこの国の農民たちに救いの手を伸べない神に対して、
「あなたはなぜ黙っているのですか。」
と問いかけるようになっていく。
主よ、こんなにも悲惨なことが行なわれていて、なぜあなたは黙っているのか。
そしてロドリゴはすでに棄教したフェレイラに会うのだ。
フェレイラは問い詰めるロドリゴに言う。
「日本人がその時信仰したものは基督教の教える神でなかったとすれば‥‥」
「この国の者たちが信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。」


フェレイラの言葉、
「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ。」
その言葉に促されて、ロドリゴは踏み絵を踏む決意をする。
「その顔は今、踏み絵の木のなかで摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。
(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。
だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。
そために私はいるのだから)
『主よ、あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました。』
『私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに』
『しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか。』
『私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているように、ユダにもなすがいいと言ったのだ。
お前の足が痛むように、ユダの心も痛んだのだから』
 その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。」


弾圧の始まった初期に簡単に踏絵を踏み棄教した農民のキチジローが言った言葉がある。
「この世にはなあ。弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責め苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、
俺(おい)のように生まれつき弱か者は踏絵を踏めよと役人の責苦を受ければ‥‥」
そしてついに踏絵を踏んだロドリゴは言うのだ。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう。」


<神はははたして存在するのかという怖ろしい問いに答が与えられたのではなかった。しかし、ロドリゴの背教が、実は神への裏切りではなく、キリストは棄教者の足で踏まれつつ、これを赦していたという信仰の畏るべき逆説>と、佐伯彰一は書いている。
「愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。あの人は沈黙していたのではなかった。」
というロドリゴの言葉。
この小説は最も辛いときに救済の手を差しのべるものとして、読み継がれていくだろう。


あのとき、高君への無意識の行為だったが、そこには何らかの心があったことを今になって感じる。