社会を作る人間、社会を作れない人間


中国の元首相・周恩来の人生を、彼の家族や元側近らが語る、四日間の連続ドキュメンタリー番組がNHKで放送され、その録画ビデオを観た。
よくこれだけ取材し、率直に語らせたものだと、この力作に感銘を受けた。
一人の人間の生涯や一つの国の歴史をどれだけ深く知ろうとしても、正確に知ることなどできるものではないが、
その生易しいことではない歴史に敢然と挑戦し、生きた人間が今になって振り返る自分の過去の体験を元にする語りには心に迫る力があった。
よくぞ生きた周恩来、いつ失脚し粛清されるか分からない瀬戸際を生きて、毛沢東に合わせながら、自分の志を貫こうとした苦難の政治家。
ぼくがはじめて中国を訪問したのは、文化大革命が最後の局面にあったときだった。
1976年の初めに周恩来は病死し、続いて毛沢東が亡くなった。
その直後にぼくら訪問団は中国に入って、涙ながらに語る案内人の心情にふれ、いまだ町を行進する赤いネッカチーフをした小学生の「走資派打倒、訒小平打倒」のシュプレヒコールに接した。
10年間に及ぶ文化大革命が国民にもたらしたもの、社会にはある意味透徹した暮らしがあり、静寂があった。一つの思想とその政策が社会を覆いつくしているとき、異なる価値観は影を潜め、混沌は遠ざかる。多くの罪なき人たちが、糾弾され人権を傷つけられ殺された。
追随するもの、右にならえするもの、迎合するものを巻き込んで、力を振るった大衆や「若きものたち」の陰で、ただただ隠忍するばかりの人がいた。
反動は毛沢東の死後にやってきた。
毛沢東を傘にきて、権力をほしいままにした四人組の逮捕。
そして中国は大転換を行なう。経済の改革開放へ。
今、世界第二の経済大国になった中国だが、そうなっても社会の中には山のような新たな難題を抱える。


先進国中の先進国であるイギリスで、暴動が起こったのは驚きだった。
結局、先進国と後進国発展途上国というが、そこにどれほどの人間の差異があるのだろうか。
ギリシャでもそうだった。
焼き討ち、略奪、暴行、
不満と怒りが人間を変えてしまう。
ノルウェーのような国ですら、極右とされる人物のテロがあった。
人はいつまでたっても、進歩しないのか。
人間の幸せになる社会を作りえないのか。
日本は如何。