アメリカの歴史、日本の現代 <ヘイトスピーチ、社会を崩すもの>


 コウ君が、部落問題研究所発行の『人権と部落問題』に記事を載せた。特集「ヘイトスピーチをこえて」の項に掲載されたのは、彼がノンフィクション作家として取材してきたアメリカとアメリカでつくられた映画を通して見た差別と抑圧の歴史であった。「ハリウッド映画が描き出す人種差別問題」と題している。
 コウ君は、アメリカの黒人差別をアメリカの歴史をとおして紹介し、そこから日本のヘイトスピーチ問題や差別の問題に迫っている。
 ぼくが淀川中学校に勤務していた1960代、コウ君はぼくのクラスの委員長だった。高校、大学と進学していくにつれ、在日の彼の願いは、祖国の南北平和統一へと広がり、ジャーナリストと学問の道を歩むにつれ、日本のなかでの人権と差別の問題を凝視するようになった。
 コウ君はアメリカで黒人問題に出会った。
 コウ君の記事から、日本の問題、日本人の課題を考えるための材料を見つけ出してみたい。
 コウ君は、アメリカの黒人問題を取り上げるにあたって次のように書いている。
 「私はヘイトスピーチ問題を考えるとき、アメリカにおける黒人差別と公民権運動を想起する。あらゆる差別は動機、手法、解決法等が通底しており、人類の人種差別問題の原点ともいえるアメリカ・黒人問題の変遷過程から多くを学ぶことができるからである。黒人の姿に、日本でのヘイトスピーチ被害者の姿を重ね合わせれば、様々な共通点を見出すことができるだろう。」
 コウ君はアメリカの奴隷の歴史を描く映画をまず紹介している。映画「アミスタッド」である。1839年アメリカへ黒人を運ぶ奴隷船で自由を求めるアフリカ人の反乱がおこる。反乱を起こした黒人は捕らえられ裁判にかけられるが、奴隷解放論者や弁護士が黒人を支援する。勇者の誇りを持つ黒人の「おれたちに自由を」と叫ぶシーン、人権獲得のアメリカの長い歴史が幕を開ける。つづいて、映画「グローリー」を取り上げている。
 「執拗なデマゴギーがもたらす弊害の一つは、被害者自身が生き延びるために自尊心を喪失し差別者に屈従することである。そのため被差別者の解放のために最も重要な第一歩は人間的尊厳を取り戻すことから始まる。」とコウ君は書き、リンカーン奴隷解放宣言の後つくられた北軍黒人部隊の南北戦争での活躍を紹介する。北軍の勝利により奴隸はひとまず解放される。しかし南部を中心に激しい逆風が吹き荒れ、新たな黒人取締法が制定される。差別は、国家、地方自治体、警察、裁判所等の公権力が助長することによって社会に蔓延し、黒人差別は法的に制度化されてしまった。
 次の歴史は差別の壁に挑戦する公民権運動だった。
 1954年、黒人溶接工のオリヴァー・プラウンは、娘が近所の白人学校で受け入れられず、遠くの黒人学校に通わなければならないのは憲法違反だと訴訟を起こした。黒人が差別制度に異を唱えるだけで命が脅かされるなかで、彼の勇気ある訴えは連邦裁判所で「公立学校における人種のみに基づく分離は憲法違反」という判決を勝ち取る。一つの差別制度の撤廃は他の差別制度をも突き崩していく。レストラン、図書館、プール等至る所の人種分離制度が撤廃されていった。
 55年、キング牧師の指導のもとにバスの座席の人種分離制度に反対するポイコット運動が繰り広げられた。キング牧師の非暴力運動は次第に白人の共感を誘っていく。危機感を募らせた保守主義者は反撃。が、もはや連邦政府も過剰な人種差別に対し黙過することができなくなった。
 57年、アーカンソー州リトルロックで九人の黒人少年少女が高校に入学しようとしたとき、知事を先頭に、学校関係者、生徒、市民らが門の前に立ちはだかり、「帰れ!」と罵声を浴びせた。これに対し、アイゼンハワー大統領は空挺部隊を動員して入学を強行させた。
 60年、サウスカロライナ州で四人の黒人学生がレストランでコーヒ—を注文し、拒否されると椅子に座り続ける「シット・イン」運動を開始した。白人が押し寄せ、殴る蹴るの暴行を加えたが、運動は15の都市で白人学生も含む五万人が参加する規模に拡大した。
 61年、13人の黒人・白人の青年がワシントンDCから南部に向かう長距離バスに乗る「フリーダム・ライド」運動を行った。座席は北部では自由だが、南部では人種分離が続いていた。バスがアラバマ州に到着すると、クー・クラックス・クランアメリカの白人至上主義を唱える秘密結社)が襲いかかり、青年たちに瀕死の重傷を負わせた。暴徒らは事前に保安官から暴力行為の承認を受けていた。すさまじい暴行の光景がテレビで放映され、全米が震撼。衝撃を受けた白人の中にケネディ大統領がいた。恥すべき光景を目の当たりにしたケネディは、公民権運動に取り組む決意を固める。
 62年、黒人青年のメレディスは、ミシシッピー大学の入学手続きを行った。が、知事や暴徒が妨害したため、連邦政府連邦軍を動員してメレディスの人権を守り抜いた。公民権法の制定に尽力したケネディは翌63年に暗殺された。
 公民権法は次のジョンソン大統領によって64年に制定された。南部で選挙権を奪われていた黒人の権利を保障する投票権法も65年に制定され、黒人差別の法制度は基本的に消滅した。さらに連邦政府は黒人の就職や進学等において優遇措置を取るアファーマテイブ・アクション(積極的差別是正措置)を推進した。これらの一連の政策により黒人の地位はようやく大幅に改善された。
 映画「手錠のままの脱獄」、「夜の大捜査線」、「ヘルプ 心がつなぐストーリー」、「アリ」、「ミシシッピー バーニング」、「マルコムX」、「フリーダム・ライターズ」、「大統領の執事の涙」、コウ君はたくさんの映画を紹介する。これらの映画は、アメリカの人権の歴史でもある。
 アメリカの歴史には、もうひとつネイティブアメリカンへの侵略と迫害の歴史がある。それは500年にわたる長い抑圧の歴史である。日本が敗戦を迎え、新しい日本をつくり始めた時、アメリカから入ってくる映画は西部劇が多かった。はでな活劇、戦闘場面を織りこんだそれらの映画では、ネイティブアメリカン(「インデアン」)は、野蛮で、暴虐で、白人に敵対するものとして描かれることが多かった。西部開拓は、ネイティブの領土を奪い、その生活を破壊することだった。
 アメリカの歴史は、独立のときからの自由平等を求めるアメリカンデモクラシーの歴史と、その反面の暴力的な差別の歴史でもあった。その両面が、現代においても現れてくる。
 コウ君は、1992年の「ロサンゼルス暴動の真実」について最後に書いている。黒人がコリアタウンを襲撃したという事件が起こり、彼はその取材を行った。そこで分かったことは、白人に対する黒人の怒りが巧みにコリアンに向けられるように政治家、警察、マスコミ等によってコントロールされていたことだった。
 コウ君は、この時の体験と、黒人に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)の歴史を学ぶ過程で、日本における在日韓国・朝鮮人差別との共通点を見出す。次のように書いている。
 「ヘイトクライムにせよヘイトスピーチにせよ、あらゆる差別の構造は同じである。ます偏狭な排他主義者がマイノリティの尊厳を踏みにじり迫害する。同調者やメディアが追随する。さらに国、地方自治体、警察、裁判所等の公的機関が追認する。かくして差別が定着していくが、同時に差別者の精神も蝕まれていく。」
 アメリカの歴史は絶えざる闘いの歴史であったことが分かる。被差別者の闘いがあり、被差別者を支援する市民がいて、社会が動き、行政、公的機関が人間の尊厳を認めていく。今の日本を見ると、ヘイトスピーチへの傍観と、弱者やマイノリティへの無関心が、社会に淀んできているように感じる。