市長と市議会議員選挙

 ぼくはその市長候補に批判的な意見をもっている。そのことをAさんは、知っている。そしてAさんはその市長候補を応援している。
 4年前の見方はAさんとは大きく違わなかった。それが4年後、異なるものになっている。そうなったのは、ぼくの「自分の頭で考え自分の足で歩いて見つめたもの」がもたらしたものだった。
 3.11の直ぐ後、福島の子どもたちを安曇野に招く企画を立てたときのM氏の対応は、まったくひどいものだった。上から目線の横柄さをぼくは感じて、それがもとでM氏への評価が生じた。
 次に新庁舎建設計画をめぐって住民投票条例制定の市民運動に参加し、それが否決されていった過程からも強い不信感を持つようになった。さらに市議会を傍聴し、ますます行政と市議会の状況が見えてきた。
 市民運動を行ない、行政を直視すると、ぞろぞろと「なんだ、これは?」と思えることが出てくる。そうして自分の見方は、行政に関心を持たない人、傍観的に暮らしている人と大きく離れてきた。
 Aさんも、この4年間に、親しい人たちの語る行政評価にときどき出会うことがあった。
 「あんまり評判がよくないねえ」
 Aさんもそう思うことがあった。それでも4年前の選挙戦で応援してきた感情的なつながりから、今年も応援しようという気になった。もう一期、義理を果たしておこうと。
 市議会議員についても、地元には地縁があって、それに従おうと思うつながりがある。
 御近所さんが、市議会議員候補者をつれてこられた。ぼくはその人物に批判的な意見がある。いくつかの事実からだ。我が家に来られた候補者に御挨拶だけ交わすが、それだけ。ぼくの表情は硬かった。候補者を連れてきた御近所さんも、ぼくの考えはうすうす知っている。御近所さんもその候補者へ義理立てで動いている。頼まれれば断れない。そういう自分自身について分かっておられるようだ。ぼそりとつぶやいた言葉が耳に止まった。
 「自分はどうも柔軟すぎるところがよくない」
 人に流されることが多いという意味に聞こえた。
 親しい人や地域の人と同調する。選挙でも同じ行動をとる。それはある意味、絆でもある。
 市長と市議会議員の選挙では、地元の地縁や、旧来の義理がまかりとおってきた。だが、このときばかりは政治家としての適格性、力量、思想、人格などで厳しく審査しようではないか。民主主義が試されるときでもある。
 私には私の考えがある。あなたにはあなたの考えがある。違っていて、考える。同調すべきではない。

 選挙カーが回っている。旧態依然とした、連呼が行なわれている。パターン化した言葉が叫ばれている。選挙のときだけ、候補者は腰を低くして哀願する。終われば腰は高くなる。勘違いする人は上から目線になる。
 だが、政策、信条を語る候補者が少しずつ増えているような気もする。
 まず確かな手ごたえ、市民が動いて、市議会の良心が増える選挙になりそうだ。
 市長選、候補者は3人。
 市議会議員選 候補者は29人、議員定数25人。