希望なき政治

 デンマークコペンハーゲン、一人の男性が言った。市民の80パーセントだったか90パーセントだったか、かなりの高い割合で、この地の親はわが子にアンデルセンの童話を読み聞かせていると。幼い子どもに読み聞かせが行なわれている家庭の温かい光景をぼくは想像する。アンデルセンデンマークの人だった。市民はまたこうも言った。
 「子どもたちには希望を持って育ってほしい」
 日本の家庭ではそんなに読み聞かせが行なわれているだろうか。そしてこの「希望」という言葉、今の日本の子どもはどんな希望をもっているだろう。
 NHKの「クローズアップ現代」という夜の番組で、フウゾクで働く十代の女の子が増加していることを報道していた。十代の女の子が20代のように化粧して、風俗店に吸い込まれていく。この子らは幼いころ、どんな物語を親から読み聞かせてもらってきただろう。そして学校生活でどんな希望を心に描いただろう。今は未来に向かってどんな希望を持っているだろうか。

 それからぼくは床についた。
 真夜中に、眼が覚めた。睡眠のなかでもぼくは考えていたらしい。ベッドの中でその続きを考えていた。

 この十月に、市長選挙と市議会議員選挙がある。市長、副市長、議員たちは、どんな希望をもっているのだろう。どんなビジョンをえがいているのだろうか。どんな理想を胸に秘めているのだろうか。
コペンハーゲンの街なかの映像が頭に浮かんだ。道路に車道と自転車道があった。自転車が走っている。自転車は電動自転車だった。それを街の公営駐輪場に入れると、蓄電される仕組みになっていた。電気は海上に並んでいる風力発電の風車から送られてくる。自転車に乗る人が多ければ、車の混雑が減る。さらにエネルギーの消費も少なくなる。市民の生活の豊かさの質が日本とは違っているように思えた。
 ぼくの住んでいるこの市の行政幹部や市議会議員は公費で視察旅行に行くことがある。友好都市のオーストリア・クラムザッハにたびたび行く幹部もいる。
 異なる文化の国や異なる行政を行なっている自治体へ視察や交流で行ってきた人は、そこから何を学び何を感じ、それを安曇野市にどのように活かし還元しているのだろう。視察や交流からどんなビジョン、アイデアを触発され引き出されたのだろう。もしそういうものが彼らの胸に湧いているのなら当然政策や議論のなかに反映するであろうが、行政幹部や議員の語る、安曇野の未来に向けてのロマンや情熱を、ついに一度も聞いたことがない。
 どんな国をつくろうとするか、どんな社会をつくりたいのか、その議論があまりにも希薄だ。

 真夜中のぼくの頭はさえてきた。眠気がさめ、頭が動き出す。これを書いておかなければ、もう一度寝れば朝には消えてしまう。ぼくはベッドから起きて、隣の部屋でメモ用紙に書く。そしてまたベッドへもどる。するとまたいろんなことが湧いてくる。「寝て起きて書く」を4回繰り返した。

 明治時代、国の大目標は「富国強兵」、列強の脅威に対抗し、先進国に追いつき追い越すことに日本は邁進した。
 ほうはいとして起こった自由民権運動が弾圧された。
日本の公害の原点、足尾銅山鉱毒事件があった。鉱毒渡良瀬川と流域を汚染し、田畑を鉱毒によって不毛の地にし、魚を死滅させ、洪水対策の遊水地になった谷中村は滅ぼされた。抵抗の先頭に立っていたのが田中正造
 「亡国に至るを知らざれば すなわち亡国」は、田中正造の予言。正義をかかげた田中正造の抵抗は弓折れ矢尽きて世を去る。
 大逆事件があった。社会主義者が全国的に弾圧され、無実の罪で12名が死刑に処された。世界から抗議が押し寄せた。
 女工哀史があった。女工が身を削って織る絹織物が富国のための財源になった。

 田中正造の慨嘆。
――日本はすでに滅亡してしまった。政府が企業を庇護して人民の滅びることをかえりみないような国のあり方、文明のあり方、そういうものが根本から変えられない限り、滅亡から抜け出すことは出来ない。――
 正造は1913年に逝去。今年は100年忌だ。
 正造の予言どおり、侵略戦争に突入して1945年、二発の原爆が落とされ、日本は滅んだ。
 そして新日本が立ち上がった。
 が、早速水俣病が勃発する。政府の政策、企業が民衆を滅ぼしていく。それから「富国」は上昇気流に乗った。2010年、大震災と原発事故の恐るべき破壊が到来して、いまだ解決の道見えず。
 「富国」政策はまたも「亡国」への道を突き進んでいるかのように思える。

 いつのまにか眠っていた。