調和のあるところに美は生まれる

 ひとり自転車に乗って地域を回り、応援リーフレットを配っている。ぼくは応援団。
 昨日も夕方6時ごろまで。ぼくの応援メッセージも一緒に付け加えて。

    彼は決意しました。政治を変えよう。
    若い力が集まっています。ママたちが動いています。
    彼らは未来を見ています。希望を見ています。
    自分の頭で考え、自分の足で歩き、
    権力になびかず、ずるさ、欺瞞を許さず、
    徹底して市民のサイドからものを見る。
    未来社会と未来の子どもに責任ある政治を。
    若い彼は、若い風を吹き起こす。
    風よ、吹け。吹き起こせ。
    壮年、老年の風も吹け。
    安曇野の未来をえがき、希望を抱ける日本へ。

 500軒ほど新興の住宅地を中心にリーフレットを配った。庭造りをしている人、小さな家庭菜園をしている人が、「ごくろうさま」と、にこやかに受け取ってくれた。いろんな家がある。さまざまのポストがある。
 家の玄関先のポストは決まった場所にあるわけではない。一戸建て住宅の場合、玄関扉に付いている家、玄関横の壁に付いている家、玄関から出た外壁に付いている家、離れた門にある家、玄関前の床に置かれている家、いろんな位置にある。さらにポストの形も大きさも材質も、デザインも、構造も、違う。
 ポストのない家もある。ポストの位置が共通しているのは、アパートのような集合住宅だけ。
 ときどきポストが見つからないときがある。どこにあるのだろう、探しても見つからない。道まで出て、もう一回距離を置いてぐるりと眼で探す。あれえ、あんなところにあった、というポスト。
 郵便物を入れる口が分からない、というポストがある。このポスト、どこから入れるのだろう、あっ、ここが開いた。やっとわかったポスト。上から入れる、横から入れる、立てて入れる、謎の箱だ。観察して考えて、いろいろ入れ方を試してみるポスト。
 押し込んでみたが、中に入らないポストがある。どうして? 中に郵便物が入っていて詰まっている? そうでもない。無理して指で押し込もうとポストの口から指を入れたとき、ぱたっと、ポストの扉がしまって、あわてて指を引っ込めたが指は強くとらえられた。「ローマの休日だあ」と、一瞬恐怖。もう少しで指は切断? となりそうだった。グレゴリーペックはオードリーヘップバーンをびっくりさせるための演技だったが、このポストでは本当に指がとらえられそうだった。盗難除けに仕組みがあるのかもしれない。恐ろしい。指は無事だったが、痛みは数時間続いた。
 住んでいる人がいないのではないかと思える家が何軒かあった。家が傷み、荒れ果てている。こんなに荒れる前に、住みたい人もいるだろうに、なんとかならないのかなと思いながら、隣の家へ。
家の入り口に、犬をつないでいる家もある。吠えかかる犬もいる。ポストの前に犬のいるところはパス。
 ポストの前にいろいろ物が置いてある。ポストの口に手を伸ばすが、入れにくい。やっと手が届き、倒れそうなバランスでポストに入れる。
玄関前に車が3台停められている。車と車のすき間をすり抜けてやっと玄関まで入る。失礼します。
 一軒一軒ポストを探し、ポストへの入れ方を見つけ、少し時間がかかる。つくづく郵便配達の人は大変だなあ、と思うが、郵便配達人は、どこのポストはどんなポストか、みんな頭の中にあるのだろう。
 郵便物を受け取る側は十人十色、自分の好みで、自分の便利さで、自分の都合で、ポストを付けた。その住人の頭のなかには配達する人の配達しやすさなんてないのだろう。配達する側への思いやりはまったく頭にないと言ったら言い過ぎか。
 郵便配達人にとっての配達しやすさ、すなわち配達の効率をちょっと住民は考えて実行に移せば、ポストからポストへ、流れるように作業がはかどるのに。
 そういう配慮は、街の調和を生み出そうという発想があるかどうかにかかわってくる。調和のある街をつくろうとすれば、周りの家と自分の家との調和、自分の家と風景との調和、家と庭との調和を実現しようとする。
 ポストの実態は、家のたたずまいの実態に共通する。我が領域は我次第、何色にしようが、どんなデザインにしようが、自分勝手、それが現代日本安曇野も同じ。
 美しい街には調和がある。