安曇野の景観、いい所・悪い所


市民への「景観アンケート」でもとるといいんだが。
安曇野で、ここがいいと思っているところはどこですか、
安曇野で、ここはよくないと思っているところはどこですか。
付け加えて、「どうしていいと感じるのですか。どうしてよくないと感じるのですか。」という質問をする。
前者の、「ここはいい感じ」というのだけでもいい。
こういう活動には行政は消極的だから、市民団体を立ち上げて行なうことだろう。
その結果は公表する。


山や川、森などの自然景観と、建造物や田畑などの人工景観とがある。
人間が作り出した景観は人間次第。
この人間の造作が自然景観を生かすも殺すもする。


安曇野の景観を守っていこうという委員会が市の建設課主導で設置され、市民からも志のある人を委員に入れようと募集していたから、昨年小論文を送って応募したけれども、今春市の審査の結果はアウトだった。
密室で行なわれる選考は、どんな基準で審査されたのか分からない。
選考する人の意図や、選考の過程は秘密にされ、結果だけ伝えられた。


南木曽妻籠を初めて訪れたのは40年前だった。
それから後、屋号「大高取」の主、松下さんの家に毎年のように家族で出かけて民泊させてもらった。
松下さんは村民とともに、妻籠の町並み保存を推進し、江戸時代の中山道妻籠宿を復元した。
今では人工景観の最も優れたところの一つになっている。
優れて美しい人工景観は、人間の心をいやすもので、ここに行くとそのことを体感できる。
理屈なしに身体と心が反応するものだ。
しかし観光化しすぎると、商業主義が逆に景観の美を壊していくという問題が起こる。
峠を一つ越えた隣の、島崎藤村が生まれた馬籠は観光化しすぎて、その目的のための建造物が村の調和を損なっている。


醜悪と言いたくなる不調和の権化とも言える場所は、僕が安曇野に来てからの四、五年間は変化なし。
ほとんど何の対策も働きかけも、よくないという意識付けもなされていないのだろう、
委員会にも地域当事者にも、自覚や問題意識がないらしい。
委員会は何をしているのだろう。


一つの例。
そこはいつも車で通過する。
広域農道沿いに数軒の店が集まっている。
地場産の農作物を販売するセンター、規模の大きい園芸店、ホテル、蕎麦屋、ラーメン店、ガソリンスタンド、そのほかいくつかが集まっているそれらは全くばらばらで、不調和もはなはだしく、ただただ自分の店を目立たせようとするだけであり、
看板を大きくけばけばしく、
のぼりを林立させ、
背後の田園や山岳地帯とは無縁の醜悪な不協和音を奏でている。
魅力を感じないところには立ち寄る気にもならない。
ここを立ち寄りたくなるような魅力あふれるところにしようと思わないのだろうか。
そうできる要素はあるのに、と思う。


自分の店だけに人を呼び込もうとする考えをやめなきゃだめだ。
近隣の集合体で地域の美を生み出し、人に魅力を感じてもらえるようにしなけりゃ。
ポイントは、オアシスにすること。
それを実現する条件、要素は、ここには存在しているが、
それを呼びかける人がいないということと、考えようともしなかったということだろう。
ここをオアシスに作り変えることが出来る要素は、
物産店の後ろに、緑豊かな神社がある。
地域のおいしい野菜や果物が集まってくる物産センターがある。
わらぶき屋根のきれいな蕎麦屋がある。
たくさんの花や樹や野菜苗を商う大型園芸店の楽しさがある。
この区域をつなぐ歩道を作り、園芸店の植木を植えて並木をつくり、
ベンチを設置し、安曇野の湧水を自由に汲めるようにし、
駐車場はこんもりと木々に囲まれ、
看板とのぼりを撤去し、全体が調和するようなものに換え、
店、建物の顔を魅力的な顔に変え、
一軒一軒の建物がハーモニーを奏でるようにする。
ここはオアシス、憩いの場所。


発想を変えれば、美しい人工景観が誕生する。
宝物を蔵していても、それを掘り出して使わない。
惜しい。