生命のリズム <1>


 生物学者福岡伸一がこんなことを書いていた。冬の夜長、バッハの曲を薄い音で聴いていた。すると想いが過去のことや、とりとめない夢に広がっていった。曲が終わると静けさがあたりをおおい、何かがまだ聞こえてくるような気がした。そんなことを書いてから、「音楽と生命のリズム」について述べている。

 「音楽の起源とはいったい何だろう。虫のさんざめき、谷を渡る鳥の歌。多くの研究者は、生物たちの求愛コミュニケーションにその出発点を求める。確かに音楽は自然界にあふれている。でも、より内発的な起源があるのではないか。
 音楽に満たされた世界がもうひとつある。呼気と吸気。血管の拍動。筋肉の収縮。神経のインパルス(衝撃・興奮)。セックスの律動。そう、我らのうちなる自然。そこにはリズムが横溢している。しかし、しばしば私たちはそのことを失念している。つまり、自分が生きていることを忘れている。音楽の中には確かな起伏があり、脈動があり、循環がある。それは生命のリズムと完全にシンクロ(一致)している。バッハを聴き終えたあと聞こえてきたものはその残響だったのだ。
 音楽は、私たちに、自らの生命の実在を再確認させるために生み出された。つまり、音楽とは人間が自らの外部に作った、生命のリズムのレファレンス(参考紹介)なのだ。音楽は文字通り、生命のメトロノームなのである。」

 この文章を読んで、ひらめいたことが三つあった。
 一つは、内なる自然のリズムと外なる自然のリズムとの関係だった。
 昨年暮れ、安曇野の景観を審議する委員会の委員を公募していたから、小論文を付して応募した。安曇野に移住して10年、野を歩き村をさまよい観察して気づいた景観の劣化に、ぼくなりの意見を役立てたいと思ったからだ。
 「安曇野の理想とする景観」というタイトルの小論文のなかに、ぼくはこんなことを書いた。
 「景色を遠景、中遠景、中景、近景の4段階に分けて美観を調べてみた。遠景の山岳はもちろん美しい。中遠景は、屋根を越す高い木々の樹冠が浪のように家々の上にラインを描き、その樹木の連なりと家々が調和して美しい。中景から近景になると美観は減る。家々が不協和音を奏でる。それでも樹木が家の周りで屋根より高く梢を伸ばしているところには、樹と建物の調和美がある。この調和の美が安曇野の景観美の重要な要素になっている。高木の存在は欠かせない。高木のない住宅団地にはうるおいが乏しく、景観美はない。周囲を取り巻く高木の比率が高いこと、それが調和の美を生む。」
 すなわち自然と人工物の調和がなくなってきていることを書いた。近景になればなるほど、風景に調和がない。それは建物が、てんでばらばらのデザインで色調もそれぞれ好きなようにつくられているからだった。建てる人は、自分の家の形だけを見ており、周囲全体のなかでどのように落ち着き、周りと調和し、景観美を高めるのに役立つかという考え方がない。昔の日本の村のたたずまいのなかに、派手な色調のモダンなデザインの家が一軒建てられたらどうなるか。美の破壊をもたらすことはまちがいない。それが日本全国でも安曇野でもまかりとおってきた。ぼくはそれを河内野でも大和路でもずっと見続けてきて、「調和の破壊」の進行を感じてきた。同時に気づいたのは、不調和の救世主が高く伸びる樹木であるということだった。建物の周囲に高木が何本かあると、家と自然の調和が生まれる。
 そのことを小論文に書いた後、気づいたことがあった。「調和」を心地よく感じるのは、歌の和音、ハーモニーを心地よく感じることに通じる。と同時に、リズムを感じるときにも心地よさをおぼえる。昔の村の風景には家々の調和とリズムがあった。ヨーロッパの町にもそれがある。美しい風景を見ているとき、心の中で体の中で、風景が奏でるリズムを感じている。
 2014年8月29日にぼくは「恐ろしい住環境」というタイトルで書いたことがある。藤原新也の小説「乳の海」に出てくる話である。主人公は、青年の生い立ちを聞きながら、彼に話す。

 <最近の新興住宅というのは、ぜいたくになる反面、いっそう人間の生理に反するような構造を持っていてね。たとえば住宅の画一化への反動のようなものがあって、今度は個性を重んじるって建前が全面に出てしまう。これは住宅に限らず最近の服飾関係にも言えることだが、こんどは企業は画一的な個性を売り始めたんだ。その新興住宅地帯に行くと、メルヘン調の家あり、日本調あり、ロココ調あり、って感じで、一軒一軒の家のスタイルが全部違うのね。その街を歩いていたときの気持ち悪さっていうか、不安感っていうか、ある種パースペクティブ(遠近法)の狂った部屋に入ったときに三半規管が狂って気分が悪くなるね、あんな感じだ。知的には一応そこに住まう人々は画一から逃れたって気分で、満足にひたってるわけだけど、それはもとを裏返せば、ひとつの店舗に同じ色のパンツやシャツを置かないっていうイクシーズ・ブランドの商品みたいなもので、あちこちに散らばった新興住宅を寄せ集めれば、瓜二つの家が無数にあるわけだ。
 しかし、画一よりももっと人間の生理をあざむくのは、その奇妙な個性主義空間なんだね。そんな住空間は人間の歴史にはかつて無かったおそろしく奇妙な空間であり、非現実的な出来事なんだ。日本だって昔はそうだった。農家といえば一つの同じスタイルがあった。町家もそうだ。スイスのアルプス小屋も、スペインのトレドの家並みも、イスラムの家並みも、隣の家と自分の家が同じというのが本当は自然なことなんだ。
 個性というのは外面の形ではなくその画一の空間に長年住み続けることによって、家に付着するその家に住まう人間の臭いとか癖とかセンスによって、育まれる種類のものなんだね。>

 人間のつくる環境が、人間の内なる自然、精神や生理を傷つける。そして病む。生命のリズムがそれによって狂わされる。その視点から景観を考えてみる必要があるのではないか。都会ならなおさらである。
 これが福岡伸一の記事を読んで思った一つ目である。
                        (つづく)