自分の育った故郷と <ヘッセの幼年時代2>」

 子どもたちが今住んでいるところ、そこが大人になっても故郷と言いたくなる場所になるかどうか、そして終生そこが故郷であり続けるだろうか。
 ぼくの育った故郷は、膨張してきた大都会のなかに埋没して、かつての故郷の風土は完全に喪失した。
 子ども時代、ぼくは通りに立って、畳屋が太い畳針を畳に突き刺すのを見つめた。石屋のおじさんが、毎日休まず大きな石をのみでカンカン刻んでいるのを眺めていた。豆腐屋の旦那が朝からつくった豆腐を水槽に入れ、一個ずつ手のひらに取り上げると幅広の包丁で切っていた。
 たがのゆるんだ桶を修繕に出すというので、祖母にくっついて桶屋に行った。桶屋の腕前を、ぼくは感心して観察していた。
 家の前に大きな池が三つあった。子どもらがジョーを呼んでいたカイツブリが水面を泳ぎ、水中にもぐって魚をとっていた。夏はウシガエルがボウーボウーと鳴き、雷魚が水面近くに浮かんでいた。ぼくは大きな釣り針をつけた竿をもって、雷魚を釣った。広がる青田の間を小川が流れ、初夏になると蛍が飛んだ。池と池の間はススキと葦の群落になり、あるとき二人の若い男女がそのなかで愛し合っていた。子どもらといっしょに散歩していたマアちゃんのおばちゃんが、
 「みんなも大人になったら、するんだよー」
と言った。
 あれから60年以上がたつ。
 墓守のおやじが、猟銃をもって見つめていた空には、今はもう一羽のガンもバンもサギも飛ばない。
 池は埋め立てられ、広大な青田もウサギが遊んだ丘陵も、広場も林も、すべてをすき間なく家が埋め尽くし、おびただしい車が行き交う。これぞ日本の姿。心の中の故郷はもうない。
 しかし、自分が育ったところへの郷愁はこんこんと尽きることがない。今の子どもたちの故郷は将来どんな映像を心に結ぶだろう。

 ヘッセ「クヌルプ」のなかから故郷の一節をつづろう。ひさしぶりに帰った故郷の姿である。

 <家畜市場の百姓や町の雑踏、栗の木の太陽を吸い込んだ影、城壁に舞う黒い秋のチョウ、飛び散る広場の噴泉のひびき。酒樽匠の地下室へのアーチの入り口から漂ってくるワインの匂い。故郷を失った男は、家郷にあることの、友だちであることの複雑な魅力を、街角ごとに、縁石ごとに、五感をあげてすすりこんだ。ぶらぶらと疲れを知らず、小路を歩いて、川ぶちで刃物の砥ぎ屋に耳をすまし、仕事場の窓越しにロクロ細工師をながめ、看板になじみぶかい家の古い名を読んだ。彼は長いこと川べりにたたずみ、流れる水の上に乗り出すように木のらんかんにもたれた。水中では黒い水草が長い髪のように揺れ、魚の細い背が小石の上に動かずにいた。古い板の橋を渡り、少年時代にしたように、小さい橋の微妙な弾力のある反動を感じてみた。
 何ひとつ忘れていなかった。小さい芝生に囲まれた教会の菩提樹も、好んで泳ぎに行った水車場のせきも忘れていなかった。彼の父が住んでいた家の、雨水で丸くなった石の階段と丸い肉太なマルメロの木とは、昔のままだった。サクランボを心ゆくまで盗んで食べた夏、ニオイアラセイトウヒルガオ三色スミレなど、花を育みめでた、たまゆらの庭づくりの幸福。ウサギの小屋、仕事場、凧づくり、ニワトコの芯でつくった水道、木っ端の水かきを糸巻きにつけた水車、どの屋根にどの猫がいるか、知らないことはなかった。登ってみなかった木はなかった。降る雨、降る雪のすべてが彼に話しかけた。ここでは、大気も土も彼の夢と願いのなかに生き、それに答え、その命を共に呼吸した。近くの家の破風がひょろひょろと高く鋭く張り出していた。昔、赤皮なめし屋のハージスが住んでいた、子どもの遊戯と少年の喜びが、少女との最初のひめごとや色ごとのうちに終わりを告げたのもそこだった。
 彼は父の庭を見た。彼が子どものとき植えた花、復活祭の日曜日に植えたサクラソウホウセンカ、幾度となくつかまえたトカゲを放してやった小石の小さい山。トカゲが一匹もそこに住みついて彼の家畜になろうとしなかったのは不運だったが、新しいのを連れてくるときは、そのつど新しい期待と希望にあふれるのだった。それからあのころのアカズグリの茂み。その一つ一つを今でも彼ははっきり記憶にとどめていた。だが、それはなくなってしまっていた。それは永遠不滅ではなかった。ニワトコの木は枯れていた。>

 今の子どもたちにとって、故郷はどんな状態だろう。今暮らすそこは、どんな故郷の姿だろう。現代人は、どんな故郷を残してやろうとしているのだろうか。福島の原発被災地に住んでいた人たち、子どもたちは、完全に故郷を失ってしまった。