幼少年時代の体験は一生の糧となる



 ヘルマン・ヘッセの研究家であり翻訳者でもあった高橋健二が、こんなことを書いている。
 「ヘッセは少年時代、すでに死の一歩手前に追いつめられる危機を体験した。その後、二度の大戦には平和主義の立場を貫いたために生活の危機に直面した。ノーベル文学賞はきびしい試練の後に得られたものであった。」
 高橋健二はヘッセを「危機の詩人」と呼んだ。ヘッセは、いくどとなく幼少年時代のことを書いた。長編作品も幼少年時代から始まっている。ヘッセは、ピストルで自殺を考えたこともあった。彼は作品のなかで、
 「人間は、その受くべきものを、幼少年時代にだけ、つまり、十三、四歳までに、十分に鋭く新鮮に体験する。彼は一生の間それを糧にしているのだ。」
と、登場人物に述べさせている。
 ぼくの幼年時代は戦争だった。空襲警報のサイレンが鳴ると、防空ずきんをかぶり、防空壕に飛び込む日々だった。サーチライトの光の帯が夜空を駆けめぐり、その光の中にアメリカ軍のB29爆撃機が浮かび上がる。家は大阪市の東南にあり、1945年3月の大空襲のときは、市の中心地域はほとんど焼け落ちた。さいわい居住区域への爆撃はまぬかれ、ぼくは家の前の道に立って、夜空を焦がす火の海をぼうぜんと眺めていた記憶がある。父は二歳上の兄を祖父母の家に疎開させていた。そこは大阪市郊外の南河内だった。祖父は重い心臓病を患っていて、暑い夏に亡くなり、家の隣にあった墓場の焼き場まで、棺おけが近所の人たちの肩に担がれていった様子も憶えている。その翌年、大阪大空襲があった。父は家族の移住を決断した。家財道具を荷車に載せ、祖父母の家まで何十キロかの道を、父は荷車の梶棒を握りしめて引いていった。途中に飛行場と大和川があった。飛行場の滑走路の下のガードをくぐり、平地よりも高い堤防にかかる橋を渡る。どちらも長い坂道を上り下りしなければならなかった。それを一人でどのようにして通過できたのか、想像のつかないその部分についての記憶はない。
 移住した祖父母の家は、裏が天皇陵、そして祖父が退職後つくっていた桃畑があった。北隣は墓地と火葬場だった。この墓地を守っていた一家とは、ぼくの小学時代、関係が深かった。おやじさんは、墓守、納棺、火葬を仕事としていたが、何丁かの猟銃を持っていて、渡り鳥を撃ったり、狐などの獣も撃ったりしていた。息子が三人、娘が一人いた。長男は召集されて戦地に行き、二十代の次男は家の葬送の仕事をしていた。彼は村の若者からは一歩距離を置かれ、少し恐れられもしていた。十代の三男はぶらぶらして、ときどき小さな悪事をはたらき近所の困り者だった。四番目の娘、トシコさんはぼくより年が二つほど上だったが学校へは行かなかったから文字が読めず、それでも素直な子でぼくの小学時代の親しい遊び友だちになった。彼女には他に友だちがいなかった。彼女はぼくの家によく遊びに来たし、墓地でも一緒に遊んだ。戦争が終わって一年ほどした日、ケンさんと呼ばれていた長男が戦地から復員してきた。軍隊上がりのケンさんはまじめで、厳しかった。ある日、墓地に生えている松の木に、三男の無頼が綱でしばられ、お仕置きされていた。何か悪いことをしたらしく、ケンさんは弟をしばったまま放置した。
 「おばちゃーん、たすけてー」
 彼は泣くように、ぼくの家に叫ぶ。母はそれを聞いていたが、取り合うことはしなかった。
 一家は夏になると川に魚とりに行った。ぼくと、二つ上の兄は、その仲間に加えてもらった。水中をのぞく箱めがねを使い、ヤスで魚を突く。網を仕掛けてとる。野性人たちの漁は名人並みだった。ぼくたち兄弟は見よう見まねで魚とりの技を学んだ。秋になって、カモやガンが空をよぎるようになると、おやじさんは墓地の入り口にある家の前で、猟銃を構える。その横に並んで立つぼくも、気分は猟師になっていた。あるとき、親父が引き金に指をかけて、鳥を待っていて、うっかり引き金を引いた。その瞬間、ぼくの肩に衝撃があった。銃を肩に当てる部分(床尾)が反動で後ろに動き、ぼくの肩に当たったのだ。痛さと言うよりも驚きだった。ぼくはワアーと声をあげて泣いた。銃口が下を向いていたから、弾は前の池に撃ち込まれた。飼われていた猟犬が興奮して走る。息子たちが親父をとがめて叫ぶ。人のよいおばさんが、ぼくに謝った。「びっくりしたな、びっくりしたな」、おばさんの顔には、疱瘡の跡がぶつぶつと残っていた。
 トシコさんとぼくたち兄弟、そして近所のワンパクは、天皇陵の堀に入って、水の中のカラス貝をバケツにとった。貝は、煮ると味がよく、家族の蛋白源になった。そのメンバーで「子どもの盆踊り」をやろうと、竹やぶから竹を切ってきて、道の端にやぐらを建てたことがあった。これを見たケンさんは、村の人に迷惑をかけるからと禁止したために実現しなかった。
 遊びほうける野性的な毎日だったが、上級になり中学生になるにつれて、友だちは学校の級友に移り変わっていった。
 この少年時代の奔放な野性的な遊びと遊び仲間について、父母から何かを言われたことは一切なかった。放任といえば大放任、自分たちで木を削ってバットをつくり、古布と綿でグローブを完成させ、野球をする。ボールが家の塀にバカスカ当たって、板塀が無残に壊れても、きわどいイタズラをしても小言もなく、お構いなしだった。幼児の時代にも、家の壁にクレヨンで落書きをさんざんしたが叱られなかった。後に、思ったことは、そこに父の幼少時代の生い立ちが関係しているということだった。一人っ子だった父は、少年時代に他家にあずけられ、母の愛情を感じられないで育った。旧制中学の時代に心を病み、進路が閉ざされた。生い立ちで受けた心の傷は、一生父の中に残っていたのだろう。だから、自分が5人の子どもの父親になったとき、自分のやりたいようにやれ、縛られずに自分の道を進め、と「超放任」を貫いたのだ。社交性はまったくなかったが、差別的な態度は一切とらず、きょうだいは仲良くやれ、それだけが願いだった。無口な父は自己の人生が挫折の人生であると常に思っていたふしがある。だがそれについては何一つ言わずに世を去った。ぼくの育った実家の隣の墓地には、あの一家はもうだれもいない。火葬場もなくなり、墓地だけが残っている。