読むところのない広報

 3年ぐらい前からだろうか、最近特にだろうか、広報がおもしろくない。どの市町村も行政の発行する広報がある。そのなかにはユニークな編集で、住民が読みたくなる内容が掲載されているところもある。安曇野市も4年前ごろ、おもしろい特集記事があった。が、最近届けられる広報には、読みたくなる記事がない。
 数年前の、印象に残っている記事がある。
 その広報のトップ記事は、市内に住む有賀さんという人への取材記事であった。
 有賀さんは満蒙開拓青少年義勇軍に入って旧「満州」へ渡り、開拓にたずさわった。しかし日中戦争に加えてソ連が参戦し、日本は戦いに敗れる。「満州」の日本人は住む家住む土地を捨てて、逃避行にうつり、有賀さんは中国側の収容所に入れられた。食べるものはなく、もう死ぬかもしれないと思う毎日だった。ある日、食べ物を求めて市内へ出て行き、力尽きて道端にうずくまっていると、目の前にマントウを置いていってくれた中国人の少年がいた。有賀さんはそれを持って帰り、仲間と分けて食べた。次の日、また市内に出て行くと、同じ少年が来て、ついてこいと合図する。有賀さんは彼についていくと、少年は一軒の床屋に入った。有賀さんも入ると、床屋の主人がおかゆを食べさせてくれた。それから毎日床屋へ行き、下働きをして食べ物をもらえるようになった。こうして有賀さんは命をつないで日本に帰国することが出来た。
 有賀さんは、命の恩人である少年と店の主人を忘れず、一生を日中友好に尽くした。時を経てから有賀さんは中国に渡って命の恩人を訪ねた。だが恩人に会うことが出来なかった。
 有賀さんは、豊科町日中友好協会の会長をしていた。このような小さな町にどうして友好協会があるのか珍しいことだと思ったが、それは有賀さんの志だった。
 この記憶は、ちょっとあやふやな部分もあるが、大筋こういうことだった。数年前には、このような印象深いルポが広報に掲載されていた。
 その記事の後、ぼくは有賀さんからもっと話を聴きたいと思い、電話をして珍しい話を聴くことができた。

 広報「あづみの」のかつての特集に、「廃線敷を歩く」というのがあった。「『場』を求めて」というのがあった。「食べ残し減量術」というのがあった。編集者の工夫がうかがえた。

 最近の広報には、直接市民から取材した特集記事がない。市民の投稿欄は存在しない。
 もともと広報は、行政から市民への一方通行の伝達手段としているから、お知らせ記事が中心になって当たり前ということだろうが、それでは市民とのコミュニケーションは深まらない。市民の声が載ることのない広報は、お上からのお達しであり、回覧板と変わらない。
 住民が困っていること悩んでいることを取り上げる。市民の建設的な考え、学ぶことのできるアイデア、市民の創造的実践を取材する。
 重要政策について相反する考えがあれば、それを取材して、考えを深めるために特集する。たとえば新庁舎建設問題にしても、三郷のゴミ・産廃の処理施設問題にしても、対立することだから触れないというのではなく、市民が最も真剣に考えていることは、行政の考えと違っても取り上げる。そうすることで、行政は市民に近づき、信頼感が生まれる。

 市民の最も切実な問題、真剣な意見が、広報にいっさい出てこない。それは市議会で検討するから市民の声は取り上げないということだろうか。行政側の意見と異なる意見は取り上げない。それでは、行政による意図的な市民の意見の封じ込めである。
 行政が市民から遠ざかり、市民の声が行政に反映せず。
 広報は、行政と市民の距離を反映している。