ルナール「にんじん」


 フランスの作家、ルナールの「にんじん」を、子どものころ読んで、すごくおもしろく、好きになった。題名は作者の少年のころのニックネームでもある。
 ルナールが寮生活の高校生だったとき、授業の中であまりに騒ぐので、教師が、
 「こら、ボウル・ド・カロット‥‥」
と叱った。「ボウル・ド・カロット」は、「にんじん色の毛」。
 ルナールの髪の毛が褐色だったことから、教師はとっさにそう言ったらしい。ルナールは、それをおもしろがり、実家に持ち帰って家族からもそう呼ばれることになった。
 ルナールは幼時、エキセントリックな母親から虐待を受け、その遺恨から「にんじん」という作品が書かれたという。虐待のことは大人になって忘れてしまっていたが、結婚して、妻のお産で実家に二人で帰ると、母親が嫁に当り散らした。それがきっかけで、子どものころの体験、「にんじん」は書かれた。
 作品は、49の小話が集まっている。その一つひとつが暗くても明るく、おもしろく、描写がまたいい。
 ひとつ秋の日の話をここに紹介しよう。「木の葉のあらし」という話。


 「ずっと前から、にんじんは、夢見心地で大きなポプラのてっぺんの葉を眺める。
 何ということはないけれども、その葉が動くのを待つ。
 その葉は、木と別れ、はなれてひとり、生きているようにみえる。葉柄もなく、自由に。
 それは毎日、太陽の最初の光と最後の光をうけて金色に耀く。
 昼過ぎになると、それは死んだように動かなくなり、木の葉というより、むしろ汚点(しみ)に見え、にんじんは忍耐を失い具合が悪くなる。と、やがて、その葉が合図を始める。
 その下で、すぐ近くの一枚が同じ合図をする。ほかの葉っぱもそれを復唱し、近くの葉に伝え、その葉がまたすぐ次に伝える。
 これは警報の合図だ。なぜなら地平線に、茶色いまるい雲が、そのへりを見せてきた。
 ポプラの木がすでにふるえている。何とか動いて、心配になる重い空気の層をよけたい。
 ポプラの木の不安は、ブナや樫やマロニエにも伝わる。庭中の木が身振りで知らせあう。地平線のあのまるい雲がひろがり、くっきりした暗色のふちをこちらに向かって押し出しつつあることを。
 まず初めに、木々は細い枝をざわめかせて小鳥のさえずりを黙らせる。ツグミは、生のえんどう豆をほうるような調子で、時折気まぐれに歌っていたし、ついさっき、にんじんが見たキジバトは、ペンキを塗ったようなのどで、とぎれとぎれにククウ、ククウという声を流していたし、そしてカササギは燕尾服を着て、うるさくてしようがなかった。」

 やがて雲は空を覆う。木々が荒れ狂い、にんじんの窒息を用意する。

 「アカシアの細い葉がため息をつき、皮のはげた白樺の葉があわれな声をあげ、マロニエの葉が口笛を吹き、蔓のあるウマノスズクサが壁の上で追いかけっこしながらさらさらと鳴る。
 低いところでは、スグリの木が赤いしずくを、黒スグリの木が黒いしずくをしたたらす。そしてそれよりもっと低いところでは、キャベツが酒に酔ったかのようにロバの耳みたいな葉っぱを動かし、のぼせたタマネギが鉢あわせをし、種でふくらんだ葱坊主をつぶしあう。」

 雲は覆面の太陽の下にひろがる。雲はにんじんの頭や額をしめつける。にんじんは両耳に指を突っ込んでふたをする。それでも嵐は旋風とともににんじんの中に入ってくる。
 嵐の描写の最後、
 「にんじんは、やがて自分の心臓が小さな玉ころになってしまったような気がしてくる。」
で、この短い話は終わる。
 嵐を観察しただけの文章であるが、子どもの感性が表れている。少年にんじんの目でとらえ、感じた、嵐に襲われる木や畑、鳥たちの様子、幼い子どもの心の様子がつたわってくる一編である。