「今日は死ぬのにもってこいの日だ」

 猛暑を残しながらも秋は急速にやってくる。吹く風のさわやかさは秋、すでにそのなかに冬の兆しをはらんでいる。山、雲、木々、畑の野菜、田んぼの稲に秋の表情が現れてきた。
 秋は、夏が死んで、冬に向かうとき、夏は冬の間眠る。そしてまた春が来て、夏が再生する。
 アメリカ、ニューメキシコ州ネイティブアメリカンのブエプロ村に住み、ブエプロ族の古老の言葉を詩人ナンシー・ウッドが書きとめ、金関寿夫が邦訳した「たくさんの冬」、そのなかに、なんとなく今のぼくの思いが重なる詩がある。

    今日は死ぬのにもってこいの日だ。
    生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
    すべての声が、わたしの中で合唱している。
    すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
    あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
    今日は死ぬのにもってこいの日だ。
    わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
    わたしの畑は、もう耕されることはない。
    わたしの家は、笑い声に満ちている。
    子どもたちは、うちに帰ってきた。
    そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。


 わたしが死ぬ日は、さわやかな日射しの日がいい。笑顔でさようならを言おう。子どもたちや孫たちの笑い声が満ち、合唱が聞こえる。悪い考えはどこかへ飛んでいった。
 ネイティブアメリカンが死を迎える日は、こういう日なんだ。さらにこういう古老の言葉がある。


 さあ、これから、死ぬことについて君に語りましょう。とても美しい話です。聞いて悲しがってはいけません。
 今にも秋が来ようというとき、わたしは山へ行く道を歩いていました。太陽は明るく輝いて、木の葉を豪華な色に染めていました。川の流れは、岩の上でゆるやかな踊りを踊り、「別れの歌」を歌っていました。鳥たちもまた、季節の終わりが近づいたことをわたしに告げていました。
 けれどどちらを向いても、悲しみというものはありません。というのは、すべてそのとき、そうあるべき姿、そしてそうあるべきだった姿、また永久にそうあるべきだろう姿を、とっていたからです。ねえ、そうでしょう。
 自然は何ものとも戦おうとはしません。死がやって来ると、喜びがあるのです。年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります。だからすべてのレベルでの祝祭があるわけです。
 わたしは道を進んでゆきながら、準備がどっさり行なわれているのを目にしました。「最後の踊り」の準備の方も、相当なものでした。
 キンイロ・アスペンの木の幹に、死ぬために来てくれた二匹の蝶がとまっていました。羽をゆっくり、開いたり閉じたりしていました。息をするのがやっとだったのです。
 太陽が彼らを暖めると、蝶は互いに踊り始めました。「最後の踊り」でした。
 流れのゆっくりした音楽、そして風の優しい声は、それにつれて死ぬべき美しい調べを、彼らに与えてくれたのです。蝶々は怖がってなんかいませんでした。
 夜が来て、太陽が地平に沈むまで、彼らは踊っていました。それから地上に落ちて、地の肥やしとなりました。
 春が再び巡ってくると、新しい緑のアスペンの幹に、二匹の新しい蝶がとまっているのに、わたしは気がつきました。彼らは一緒に踊っていました。それは「求愛の踊り」だったのです。流れは、速く、汚れなく、再び新鮮でした。流れが蝶々のために作った歌は、「新生の歌」という歌でした。
        「今日は死ぬのにもってこいの日だ」(めるくまーる)