はるばるやってきてくれた人たち


 ノブスケは宿題の日記を忘れてきた。
 こんなことじゃ、目標を達成できないよ、教室での勉強の10倍は自分でやらなければ、とぼくは言う。
 勉強は、小学校3年用漢字のドリルだ。チンさんの勉強は、書いてきた日記を添削し、日本語の文章作りの指導をする。ノブスケはパラグアイからやってきて小学校6年の終わりに地元の小学校に転入した。今定時制高校に通っているが、漢字の力は小学2年ぐらい。日常の平易な会話はかなりこなせるが、少し複雑になると分からない。チンさんは日本人の夫と結婚した。この二人は、日本の国籍をとって日本で生きていく。特にノブスケの場合、今の日本語力ではきちんとした職業にもつけない。
 そこで指導者たちで相談して、先週から、ノブスケとチンさんに日本語特別指導を行なうことにした。月水金の午前10時半から12時まで、指導者が交代で公民館と社協の会館に出かける。日曜日夜の日本語教室だけでは日本語力を高められないからだ。指導はすべてボランティアになる。

 指導が終わって帰ってきたら、はがきが来ていた。大阪の障碍者団体「マツサクグループ」からだった。
 特定非営利活動法人共同連の大会が新潟県で開催される。そこに参加してから安曇野に寄って観光して帰りたいから、家に寄らせてもらうということだった。共同連というのは、「差別とたたかう共同体全国連合」。1984年に結成、2001年にNPO法人化した。「共に働き、共に暮らす」をスローガンに一貫して障害者の労働権保障に取り組んでいる。 「マツサク」は、NPO法人大阪障害者労働センターである。代表の松葉作治さんの松作をニックネームにした。
 いったい何人で来るのかなと、はがきをよく読むと、16人とある。16人! じぇじぇじぇ、16人が今日の午後やってくる。さて、どうしたらいいだろう。
 午後2時ごろ、彼らはやってきた。車三台に分乗して。ワゴン車を運転してきた作治さんは、自ら障碍者だ。若い頃交通事故で下半身がマヒし車椅子で活動している。ぼくが大阪の加美中学校に赴任していたとき活動が始まり、それに協力してきたことからそれ以来のつき合いだ。
 電動車いすが数台車から下ろされた。電動車椅子の人たちは砂利道をごろごろ運転して我が家の工房前までやってきた。それぞれの障害を持つ人とお世話役の健常者のみなさんを前にして、ぼくは、まだどうしようかと迷っていた。作治さんは、
「顔を見に来ただけですから、すぐ帰ります」
と言うが、そういう訳にもいかない。作治さんとは工房の前でお話しする。歩ける人は工房の中へ入ってもらった。
 準備も何もしてこなかった。何のおもてなしもできない。工房はバリアフリーにしていないから歩けない人は入れない。
 家内が苦肉の策で、もいであったトマトを一個ずつたべてもらうことにした。
 申し訳ない。
 わざわざこんな遠くまでやってきてくれたみなさん、車の乗り降りも大変なのに。
 こんなところまで会いにやってきてくれた。
 それをどう考えたらいいだろう。作治さんたちの友情と言えばいいのだろうか、あるいは昔のかかわりを忘れない義理堅さと言えばいいのだろうか。ぼくは何も恩義と思われるようなことはしていない。だからやはり友情と言うしかない。「マツサク」にかかわったときから、25年が経っている。25年たっても、彼らの思いは消えることがなかった。
みなさんに頭が下がった。
 トマトを食べてもらっただけで彼らは帰っていった。
 ジャガイモ、収穫したのをどかんと持って帰ってもらったらよかった。後からいろいろ思う。