子どもたちの自然体験がやせ細っている

 長年、子ども野外活動の実践と研究にたずさわってきた、信州大学教育学部長・平野吉直氏の講演を昨日聞いた。
 その話の印象深かったことを記してみよう。

 小学生の、5泊6日のキャンプをした。このごろキャンプで感じるのは、ホームシックになる子の年令があがってきていることだ。これまで3、4年生にはいたが、5、6年生にはいなかった。それが5、6年生にも、中学生にもホームシックで泣き出す子がいる。
 キャンプのなかでいろんなゲームをする。輪切りした太い丸太の上に、何人乗れるかというゲームをしたら、時間がかかって、なかなかクリアしない。以前なら、仕切りやがいた。仕切りやの子がリーダーシップを発揮した。最近は、グループの子どもたちの中にリーダーシップを発揮する子がいない。ずっと傍観していたり、背を向けたりしている子がいてゲームが成り立たない。
 電車の中で、保護者らしい人たちが子どもについて会話していた。最近の子どもはマッチが使えない、ご飯の炊き方を知らない、ぞうきんが絞れない、などとお母さんたちが話している。それを聞いていた年輩の男性が言った。
 「マッチの使い方を知って何の役に立つ? 今の子に大切なのは英語がしゃべれて、パソコンが使えることだ」
 自然体験について小学生に調査してみた。
○虫を捕まえたことがあるか。
○海や川で魚や貝をとったことがあるか。
○夜空の星をゆっくり見たことがあるか。
○海や川で泳いだことがあるか。
 結果は非常に少なかった。それも都市部と地方ではほとんど差がない。田舎にいても自然にふれていない。キャンプのとき、星空を見た子が、「プラネタリウムみたい」と言った。日の出、日の入りを見たことのない子が、3分の1いた。
 虫を捕まえたことのない子は、平成10年の調査では4分の1だった。平成17年では3分の1、平成21年では2分の1、と増えている。満天の星空を見たことのない子もほぼ同じで増えている。海や川で泳いだことのない子は3割、キャンプをしたことのない子が6割。
そこで平野氏は講演を聞いている人に質問をした。
 「この地域の子どもたちは、どこで泳いでいますか?」
 シーンとして声なし。お父さんの声がボソッと聞こえた。
 「拾ヶ堰で昔は泳いだが、今は泳げない」
 拾ヶ堰(じっかせき)は農業用に開削され、安曇野一帯にはりめぐらされた幹線水路、昔の子どもはここで泳いだり水遊びをしたが今は厳重な柵が設けられ、入ることは禁止されている。
 平野氏はここで自分の子どもが小学生だった頃の話をした。
 書店の平安堂へ行こうと子どもが言うから、自分で行っておいでと言った。ところが子どもは行こうとしない。どうして一人で行けないのかと聞くと、子どもは、「学校ではよその校区へひとりで行ってはいけないと決められている」と言う。平安堂のある街は校区が違う。そこへ一人で行くのは規則違反になるらしい。そこで平野氏はこう言った。
 「今日は土曜日だから、学校は休みだ。土曜日、日曜日は学校の規則は関係ない。お父さんが規則をきめるからおまえは行ってもいい」
 ところが子どもは言うことを聞かず、結局一緒に行った。
 その規則に疑問を感じた平野氏は校長に話した。すると、事故があったからそうしているということだった。
 最近、外で子どもが遊んでいるのを見たことがない。遊ぶ時間もないし、遊ぶ仲間もいない。子どもの世界から遊びが消えてしまった。
 子どもの成長に自然体験の遊びは欠かせない。自然体験の意義には、
○ 活発な身体活動
○ 他者との積極的なコミュニケーション
○ 自然、人、社会との直接的ふれあい
○ 創造、工夫、苦労
がある。それは生きる力を培うことでもある。
 子どもには宿泊キャンプが大きな体験になる。それも長期になるほど子どもを変える。これまで最長の例は31泊のキャンプだった。17泊というのもある。長期になるほど、テント生活ほど、自炊するほど、天候が変化し厳しいほど、子どもの体験と学びは深くなる。
 講演の最後に質問が出た。危険、事故についてだった。平野氏はこう語った。
 リスクとハザードの二種類の危険がある。リスクは経験によって乗り越えられる危険である。たとえばナイフを使うこと、それによる怪我というのはリスクである。一方ハザードは絶対避けなければならない危険である。たとえば雷とかの危機。これは事故が起こらないように対策を取らなければならない。
 要するに今の子どもたちは、リスクを克服する力や技をつけることまで避けてしまい、体験から逃避しているということだった。

 平野氏の話には共鳴する。かつて実践したこと、日ごろ思っていること、提唱してきたことに通じる内容だった。
 安曇野の子どもたちには川遊びをするところがほんとうにあるか。
 安曇野の子どもたちは、森や野原で遊んでいるか。
 NOである。