8.15「軍装登山の少尉」へ


 8.15のコメント欄に返事を下さった「軍装登山の少尉」さん。
 旧日本軍の軍装で北アルプスに登山され下山してこられたあなたと、私たちはお会いしました。それは私の幻覚でも、幻想でもなく、あなたは実際に常念岳の峨雅たる山頂を踏み、往時の兵士の苦難を追体験し、行軍の苦難のほんの一端を感じ取られたようです。
 私はあのとき、竹山道雄の作品「ビルマの竪琴」に登場する水島上等兵を連想し、目の前の若い兵士姿のあなたがその人であるかのような幻覚の湧いてくるのを覚えました。
 現代に生きる私たちには、あの戦争の悲惨は想像することもできないものです。
 「ビルマの竪琴」に描かれていた部隊の隊長は音楽学校の出身で、その部隊では戦闘の合間によく合唱をしていました。水島はビルマの竪琴を自作し、それを伴奏にみんなは歌いました。
 ある日、水島の部隊がジャングルの中でイギリス軍に包囲されます。隊長はそこで敵を油断させ、戦闘準備を整えるため、歌いつづけさせます。「羽生の宿」を歌って、弾薬を確保しようとしていると、包囲しているイギリス軍のなかから、「羽生の宿」の原歌「マイスイートホーム」の歌声が起こります。それは水島の部隊の歌に感動したイギリス軍兵士たちの声でした。敵味方はそれぞれ、ふるさとの家族を想って歌い、やがて兵士たちは広場に出てきて、一緒に歌い始めます。もう敵も味方もありませんでした。兵士たちの共感、感動が戦闘行為を停めたのです。そして「歌う部隊」の兵たちはすでに3日前に停戦になっていたことを知ります。兵たちは捕虜になり収容所に送られました。けれども、水島は仲間と別れて僧となり、山野に野ざらしとなった兵たちを弔う活動をはじめるのでした。
 これは小説であって、こういうことは実際にはありえないことと思われます。しかし、ここには悲惨な戦争を体験してきた作者の希望が込められています。何ゆえの敵なのか。敵も味方もない、家族を同じようにもつ人間として心を通わせれば、戦争を超克することができるはずだという希望です。
 アジア太平洋戦争の戦場は中国であり、東南アジアであり、日本からはるか離れたいわゆる外地でした。そこでの戦闘を可能にするには、兵器・弾薬だけでなく、なにより食料が必要です。しかし、奥地の戦場では食料は補給されませんでした。したがって現地調達せざるを得ず、原住民から奪い取ることも起こりました。しかしそれもできない密林・山岳地帯で、日本軍の兵士は多く餓死していったのです。 
 体験した事実に基づいて書かれた「インパール」(高木俊朗)のなかにこういう描写があります。
 最前線の個人壕に一人ひとり兵士がひそんでいます。壕の中に豪雨の水が入り込んできます。

 <兵隊の皮膚は、水びたしになっているために白く変色し、べろべろとはがれた。内臓はかびがはえ腐蝕し、変形していくように感じられた。
 今、壕の中にいる兵隊に与えられているのは、馬の飼料として用意されたカタバイである。それも一人一日の分量は、てのひらにのるくらいしかない。この豆のひきわりと、ふすま粉の混合物が、下痢と腹痛に苦しんでいる兵隊の食料である。
 このような兵隊の中から、夜になると、二組三組と、斬りこみ隊をつくって出ていった。斬りこみは危険ではあったが、英印軍の豊富な糧食を奪えることが大きな魅力であった。>
 <その夜、連隊は新しい戦場に向かって出発した。豪雨がマニブール盆地をおおいかくし、激しい雨のしぶきが霧のように吹き流れた。
 歩行困難な傷病者をあとに残したので、連隊は四百名にたりなかった。栄養失調と、脚気と、負傷の兵が、ふたたび幽霊のごとき行進を起こした。兵隊の多くは片手に銃を持ち、片手に杖を持った。すさまじい雨脚が、兵隊の破れた服を洗い、泥と血を流し去った。雨の音は、号令の叫びを吹き飛ばし、隊列から起こる痛ましいうめき声を押し殺した。
靴の代わりに、布きれをつけた足が、よろめきながら、急流と変わった丘の道を歩いていった。>

 この文章ではインパール戦のほんの一部を垣間見るだけです。
1944年3月に始まるインパール攻略戦は、一将軍の個人的野心のために多数の将兵を犬死させました。インパールミャンマーに接するインド東部です。兵8万5千のうち3万人が戦死して、敗退しました。
 これほどまで無謀な愚劣な攻撃は、文明国の戦争の歴史に見出すことは困難であろう、と言わしめた戦いの一端です。こういう実態があり、それをふまえて、小説「ビルマの竪琴」は、人間のなすべきことは何かと考え、水島上等兵を登場させました。
 水島はミャンマーに残り、その魂は、今なお山野をめぐって犠牲者の霊魂を救済しているように思えてなりません。