二つの忘年会


 50年ぶりに、人前でアコーデオンを弾いた。下手な素人演奏だが、二つの忘年会で、場を少しでも楽しくできればと思った。
 日曜日は、日本語教室の忘年会。20人ほどが集まった。ベトナム人、中国人、中国から帰還した日本人の母とその娘、そして娘の夫のMさん、台湾から嫁いできた女性。指導者6人はみんなと食卓を囲んだ。日本人と結婚した中国人女性のAさんの娘は3歳ぐらいかな。日本人と結婚したベトナム人の女性も3歳くらいの男の子を連れてきた。赤ん坊から幼児期への成長は大きい。二人はキャーキャー声を発しながら仲良く走り回り遊ぶ。その姿がかわいく、みんなの顔がほころぶ。
 アコーデオンを弾こうと決めてから、簡単な曲を選び、練習した。イギリスの直轄植民地であった香港で安く買ったアコーデオンは、今も美しい和音を響かせてくれる。
 1965年、文化大革命の中国を、教職員組合部落解放同盟の共闘組織で訪中団をつくり視察し交流した。そのメンバーにぼくも入って訪中した。混乱期の政情もあって、訪問地は限定され、北京には行けなかった。香港から中国に入り広州、長沙、武漢など南中国を回って交流し、学校や街の工場などを視察して、また香港に戻った。そのときに香港で見つけた逸品がぼくのアコーデオンだ。演奏家だったら逸品とはとても思えない代物だが、ぼくにとってはいい音色だと思う。
 忘年会に向けて練習していった曲は、山の歌やドイツ民謡の6曲だった。50年ぶりのポチポチ演奏だが、できるだけ美しく奏でよう、楽しんでもらおうと何度も繰り返し練習した。目的があると、練習にも熱がこもる。
 本番になった。やはり緊張して指が動きそこねるところがあった。みんなは意外な出来事に喜んでくれた。場が和んで、つづいてMさんが中国の歌を歌い、陽気な会話に場が盛り上がった。
 そして昨日は、地元の公民館での「コーラスの会」の忘年会。人数は20人ほど。この日はお酒も入った。初めに全員合唱、つづいて特別出演でマジックを村の若い衆がやってくれた。コーラスのピアノ伴奏をしてくれている佐保子さんはショパンピアノ曲を演奏、その後に僕のアコーデオンとなり、最後に博秋さんがギターを演奏し、小椋佳の歌を歌った。
 食事をしながら、一人ひと言、今後に向けての意見を出し合ったとき、巌さんが、思いがけないことを話した。
 「私は話があまりできないし、歌も声が出なったのですが、私を変えた一曲があります。それは『大地讃頌』です。早春賦音楽祭で歌う穂高の合唱団に参加して練習した曲です。西山先生の指導で何度も何度も練習しました。それから私の声が出るようになりました。この歌を、またここのコーラスで歌いたいです。」
 巌さんはこの歌で変わった。巌さんと奥さんの清子さんは、『大地讃頌』のCDを持ってきていて、それを会場に流した。ぼくも『大地讃頌を歌う会』で、巌さんと並んで歌ってたので、巌さんの思いを聞いて深く共感した。ぼくは会場に流れるCDの曲に合わせて口ずさんだ。
 「巌さんを変えた『大地讃頌』を、私たちやりましょう。」
 ぼくがそう発言すると、共鳴者の声があがった。
 ぼくの番になり、一言は少し長くなった。
 「私が小学二年生の時、戦争が終わりました。今の年齢がそれで分かりますね。」
 女性の何人かがうなずいて笑顔になった。
 「私の小学校、中学校時代は戦後でしたから、正規の音楽の先生がいませんでした。音楽の時間は、ほんのわずかしかありませんでした。だから楽譜を読んだりする知識がありません。私が合唱を始めたのは大学山岳部で歌うようになってからです。私の山岳部は『歌う山岳部』でした。音楽部員であった男が山岳部に入部してきて、その男が合唱指導をしてくれました。キャンプの夜は歌います。楽譜を見て歌うのではなく、耳で聞いて覚えて歌いました。パートに分かれて、すべて無伴奏で、かなりレベルの高い合唱が生まれました。穂高の涸沢で、鹿島槍ヶ岳で、ぼくらは大合唱をしました。ロシア民謡もいっぱい歌いました。」
 「映画された小説『ビルマの竪琴』に、『歌う部隊』が出てきます。隊長が音楽学校の出身者で、部隊はいつも歌いました。水島上等兵が竪琴を奏でました。戦争の終結間際、部隊はジャングルの中でイギリス軍に包囲されます。包囲された「歌う部隊」は、最後の突撃をしようと考え、弾薬庫から弾薬を取りに行くために合唱しながら、敵軍の攻撃をはぐらかせようとします。そのとき歌った歌が『埴生の宿』です。包囲していたイギリス軍は、その合唱を聞きます。『埴生の宿』は、元はイギリスの歌です。敵の日本軍が自分たちの祖国を思う歌、イギリスの『マイ スイート ホーム』を歌っている。それに感動したイギリス兵たちも英語で歌いだします。日本兵たちもその歌に感動します。そして広場に両軍の兵たちが出てきて、戦闘が避けられていくのです。そのあと戦争は既に終わっていることが分かるのです。」
 ぼくはこんな話をして、「埴生の宿」を歌おうと提案した。
 6時半前に始まった忘年会は、10時近くになって終わった。歌はいいなあ、もっと歌いたいなあ、みんないい人だなあ、いい忘年会になった。