旧日本軍兵士との出会い

 前回、山で出会った一つの不思議を書いていなかった。
 12日、登り道でのこと。常念小屋までの最後の登りは胸突き八丁と呼ばれる急傾斜だ。道はジグザグになっている。
 樹林帯を右上から降りてきた二人の男がいた。目の前に姿を現したのは、なんと兵隊ではないか。カーキ色の兵隊服に兵隊帽、腰剣、下肢にゲートルを巻き、背嚢を背に負っている。旧日本軍の兵士だ。
 「どうしましたか」
 あっけにとられて、ぼくは大きな声をかけた。
 「8月15日がやってきますから」
 先頭の男が応えた。まだ若い兵士だ。
 「それはご苦労様でありました。戦争が終わって68年、長い間ご苦労様でありました」
 仮装であることは分かっていたが、ぼくは現実の世界に戻ってきた日本軍の兵士と会話しているような気分になって、そんなジョークを言った。
 若い兵士は右手を額にあてて敬礼し、笑みを浮かべながら行き過ぎていった。
 ぼくの心の中に水島上等兵が浮かんだ。ぼくは今見た兵隊姿の男と水島が重なり、彼に語りかけた。
 水島上等兵殿、あなたの魂はミャンマーから戻ってこられたのですか。
 ビルマの大地に屍をさらしている同胞の供養のために、祖国に帰らず、僧侶となられましたが、それからずっとビルマで戦場に散った兵士とビルマの人たちのために生きてこられたのですね。
 竹山道雄の物語、「ビルマの竪琴」の若い兵士、水島の姿と、今の男が重なった。
 さっきの男は、兵士に仮装して常念岳に登り、8月15日の戦没者供養を行なった。戦争という現実を体験したことのない若者だから、行軍の苦難を体験しながら、戦争の何かをアピールしようとした。そんな想像が湧く。しかしまた、それにしてはあまりに奇抜すぎるアイデアだから、単なる興味本位のサプライズパフォーマンスではないか、とも思う。
 そういう現実的思考があり、一方でその男は戦没兵士ではないかという幻想もわいてくる。ひょっとしたら彼は故水島上等兵ではなかったか、と。

 竹山道雄ビルマの竪琴」に、水島の手紙が出てくる その一節にこんな文章がある。

 <まことにわれわれは、われわれの同胞は、苦しみをなめました。多くの罪なき人びとが無意味な犠牲者となりました。まだ若木のような、けがれを知らぬ人たちが、家を離れ職場を去り、学窓を出て、遠い異国にその骨をさらしました。考えれば考えるほど痛恨に耐えないことです。そして省みて、わたしは切に思います。われわれは、これまであまりに無思慮だった。あまりに生きているということについての深い反省を忘れていた、と。
 わたしは僧として修行しながら知りました。昔からこの教えは世界と人生について、驚くべく、深い思索を続けています。そしてこの教えに献身する人びとは、真理をつかむために勇猛心を振るい起こして、あらゆる難行苦行をも、あえてします。それは軍隊の勇気にも劣らぬほどです。目に見えぬ精神のとりでをおとしいれるためのたたかいなのです。そのためには。ヒマラヤの大雪原を半裸の姿で、はって登る人さえあります。
 われわれは、こうした努力をあまりにしなさすぎました。こうした方面に大切なことがあるということすら、考えないでいました。われわれが重んじたのは、ただ、その人が、何が出来るかという能力ばかりで、その人がどういう人であるか、また、世界に対して、人生に対して、どこまで深い態度をとって生きているか、ということではありませんでした。人間的完成・柔和・忍苦・深さ・清さ――、そして、ここに救いを得て、ここから人にも救いをわかつ。このことを、わたしたちは全く教えられませんでした。
 わたしは、この異国に僧となって、これからはこの道を行きたいと願います。
 山を攀じ、川を渡って、そこに草むすかばね、水づくかばねを葬りながら、わたしはつくづく、疑念に苦しめられました。――いったいこの世には、なぜにこのような悲惨があるのだろうか。なぜにこのような不可解な苦悩があるのだろうか。われわれは、これをどう考えるべきなのか。そしてこういうことに対しては、どういう態度をとるべきなのか。
この疑念に対しては教えられました。――この「なぜに」ということは、しょせん人間にはいかに考えても分からないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界に、少しでも救いをもたらすものとして行動せよ、その勇気を持て。そしていかなる苦悩、背理、不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を、身をもって証するものたるの力を示せと。このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願いたします。>

 水島の幻想を呼び起こしたあの男たちと、もう少し会話をしたかった。