麻生氏の発言と歴史

 1919年8月に制定・公布されたヴァイマル(ワイマール)憲法に基づく、ヴァイマル共和国(ワイマール共和政)、すなわちドイツ共和国。
 当時最も先進的な憲法をもったドイツが、どうしてナチスに政権をゆだね、第二次世界大戦に突入していったのか。歴史をたどってみた。
 麻生氏のいうような、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わったんですよ」、そんな歴史は存在したのだろうか。

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1919年 1918年のドイツ革命によって帝政崩壊、ワイマール共和国(共和制ドイツ)成立。ワイマール憲法制定。ドイツ社会民主党エーベルトが初代大統領になる。
1921年ヒトラーナチスの指導者になり、突撃隊による街頭闘争を展開。
1923年、ヒトラーミュンヘンを中心とするバイエルン(ドイツの右翼の拠点)で一揆を起こす。一揆は失敗し、ナチは非合法化されヒトラーは投獄される。
1923年、ドイツ共和国第二回大統領選挙。保守・右派陣営は、帝政派の元軍人ヒンデンブルクを候補に担ぎ出す。ブルジョワ・保守派・右翼勢力が応援するヒンデンブルクは1465万票を獲得。ヒンデンブルクは、第2代ワイマール共和国大統領に就任。
1924年から1928年頃までドイツは経済的に安定。ヒンデンブルクは、ドイツの国際連盟加入を実現させ、ドイツの国際社会復帰を果たした。
1925年、再建されたナチ党は大衆組織による合法運動で発展。
1929年、ニューヨーク株式市場が暴落し、世界大恐慌が起きる。
大恐慌による失業者対策に、社民党との連立内閣が定めた失業保険政策は社民党の党内合意を得られず内閣は総辞職。
1930年、ヒンデンブルクは、ブリューニング(中央党)を首相に任命。保守派と軍部の支持を得たブリューニングは、大統領大権である「緊急令」を強引に活用して政権運営を行う。大統領の緊急令をもって政治を行う「大統領内閣」の時代となる。
ブリューニング内閣は、国際協調主義を継承。しかし大恐慌の中で経済は危機に陥り、国民に耐乏生活を強いることとなる。ブリューニングはヒンデンブルク大統領に要請して財政に関する大統領緊急令を発令したが、国会で社民党によって潰された。ワイマール憲法は大統領の緊急令を認めつつ、これを国会が投票で破棄できるとも定めていたためである。ヒンデンブルクは議会に解散を命じて総選挙に打って出たが、結果は左右両極の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とドイツ共産党の躍進となった。
ブリューニング内閣は社民党の協力で辛うじて政権を運営する状況となり、ヒンデンブルクは大統領緊急令をしばしば行使するようになる。
1931年、ヒンデンブルク大統領は、ブリューニングの求めに応じて「政治的過激派撲滅のための命令」を発令し、ナチ党の集会と制服を禁止し、またナチ党の新聞を発禁処分にした。
1931年、ナチ党首ヒトラーヒンデンブルク大統領と初面会。ヒトラーの熱狂的な雄弁はヒンデンブルクに悪印象を与え、ヒンデンブルクヒトラーを毛嫌いするようになる。ヒトラーは政府へのいかなる協力も拒否。翌日11日にはナチ党は国家人民党や鉄兜団とともに右派大連合の反政府運動「ハルツブルク戦線」を組織した。
1932年、ヒンデンブルク大統領の任期が切れ、大統領選挙となる。ヒンデンブルクはこの時84歳。ヒンデンブルクが不出馬の場合ヒトラーが大統領に当選する公算が大であったため、ヒンデンブルクは再選を目指す。ヒトラーも出馬を宣言。この選挙でヒンデンブルクは中央党、社民党労働組合ユダヤ勢力などから支持を受けた。ヒトラー社民党労働組合を徹底的に攻撃し、また再軍備を約したことで、急速にブルジョワ・保守・右翼たちから支持を集めた。ヒトラーに巨額の政治献金が行われ、ヒトラーの選挙資金はヒンデンブルクよりはるかに多かった。
選挙は、ヒンデンブルクが1866万1736票、ヒトラーが1133万8571票獲得した。しかしヒンデンブルクの得票が過半数に達しておらず、当選者無しとなり、第二回選挙に持ち越される。第二回投票はヒンデンブルクが1935万9642票、ヒトラーは1341万7460票。ヒンデンブルクは帝政復古主義者でありながらワイマール共和国派の支持を受けて再び大統領に当選。
1932年、ヒンデンブルクはブリューニング首相や国防相兼内相らの要請を受け入れて、ナチ党の突撃隊と親衛隊に禁止命令を出した。しかし効果は薄く、各州で行われた地方選挙でナチ党はバイエルン州を除く全ての州議会で第一党に躍進した。大統領府官房長シュライヒャーは右翼大連立政権を画策してナチ党に接触し、ブリューニングらの反ナチの動きを封じる。さらにシュライヒャーはヒンデンブルクにブリューニング解任を提案。ヒンデンブルクはこれに同意し、ブリューニング首相を呼び出し、「右翼政治を行え」「労働組合指導者層とは手を切れ」「農業ボルシェヴィズムは根絶せよ」と命じ、ブリューニングを総辞職に追い込む。
つづいてヒンデンブルクシュライヒャーが推すパーペンという無名の貴族を首相に内定。ヒトラーに、パーペンを首相とする保守・右翼内閣への支持を要請する。しかしヒトラーは自分が首相に任命される以外に政府に協力することはないと拒否。パーペンはナチス懐柔のため、突撃隊と親衛隊の禁止命令解除をヒンデンブルクに申請し、ヒンデンブルクは解除命令を出した。
次にパーペンの要請を受け、大統領はプロイセン州首相(社民党)の政府を解体。これによりワイマール共和国派の最後の牙城は崩壊した。共産党員の検挙も本格的に開始された。
パーペン内閣のもとで、7月総選挙が行われた。ナチス党は大躍進し、総議席608議席中230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党となった。
パーペンとシュライヒャーはヒトラーと会談し、ヒトラーに副首相就任を要請。ヒトラーはこれに激怒し会談は決裂。ヒンデンブルクは自らヒトラーを招き、パーペン内閣の副首相になるよう説いたが、ヒトラーは首相の地位を要求。会談は決裂。
9月、ナチ党は社民党共産党などとともにパーペン内閣の内閣不信任案を可決させた。
11月、総選挙でナチスは196議席と第一党の座を維持した。ドイツ共産党は初めて100議席を獲得。パーペンは再度ヒトラーに副首相就任を打診したが、やはり拒否され、パーペンはヒンデンブルクに「新国家案」を提出。国会を二院制にし、国民の各家父長に2票の投票権を与え、一切の政党・労働組合・経済団体を解散させるという内容だった。ワイマール憲法を無視した内容だったが、ヒンデンブルクは賛成、しかしシュライヒャーはナチ党と共産党が反乱を起こすことを恐れて反対。パーペン内閣は11月総辞職。ヒンデンブルクシュライヒャーにパーペン内閣をつぶした責任を取って後任の首相を引き受けるように求める。12月、シュライヒャーはワイマール共和国最後の首相に就任すると、ナチ党と連携して政権運営を図ろうとしたがヒトラーは協力を拒絶。
一方、パーペンはヒトラーと連携をはかり、ヒトラーは味方に取り込むことに成功。
1933年、シュライヒャーは国会を解散して次の選挙日を定めないまま軍事独裁政権へ移行する事をヒンデンブルクに提案したが、ヒンデンブルク違憲であるとして却下。シュライヒャー内閣は総辞職した。ヒンデンブルクはなおもヒトラーの首相就任には抵抗があったが、1933年1月30日午前11時15分、ついにヒトラーを首相に任命した
ヒトラーは首相に就任して2日後、ヒンデンブルクヒトラーの要請に応じて国会を解散し、総選挙になる。さらにヒトラーの要請で「ドイツ国民保護のための大統領令を発令し、国民の集会・出版・言論の自由を停止した。さらに国会議事堂放火事件が発生したことを受けて、「国民及び国家保護のための大統領令」を発令し、国民の権利停止の範囲を拡大。同日、プロイセン州内相ゲーリング共産党員を4000人逮捕し、強制収容所へ収容した。共産党の活動は禁止され、同時に社民党の機関誌も発行禁止処分。
3月5日、国会選挙の結果、ナチ党は43.9%の得票率を経て288議席を獲得した。ヒトラー内閣の与党である国家人民党は52議席獲得したため、与党は過半数を獲得。更に共産党の国会議員81名を資格停止処分。かくしてナチ党が単独過半数を獲得。
3月13日、ナチ党宣伝全国指導者ゲッベルスを国民啓蒙宣伝省の大臣に就任。

■以上項目だけ取り出しても、たいへんな闘争、駆け引き、懐柔、弾圧が行なわれていたことが伺われる。「いつのまにか」しずかに、歴史が進んでいたのではない。事実はもっとすさまじいものであったろう。