変革に向けて、ことは始まった



4日前に、彼はメールを発した。
それを受けて今日の日曜日、午前10時からメールを受けた有志が集まって、出発の集いを開いた。
彼が6年前に開いた農家民宿の、古い座敷に、約40人、
幼い子ども連れのママたちが目立つ。
年輩の男たちは7、8人、あとはみんな30代、40代の、主体は若い人たち
メールを受けたとき、大工の大介君は鳥肌が立った、と言った。
メールを受けた若いお母さんは、その夜、眠れなかった、と言った。
彼のメールは、夏の夜の暑さ疲れを一瞬にして吹き飛ばした。
3日前に彼の意志を伝えられ、事務局を託されたという若い男が、こんなことは初めてと言いつつ集会の進行をした。
3日後に集会を開くなんてとても無理だ、それは本気かと問うたところ、本気だとわかって、事務局を引き受けたという。

集いのはじめに彼は話した。立候補に至ったいきさつと、これまでの思いの丈を。
話は、3.11後、彼の宿に受け入れた震災避難者のことから始まった。

国と大企業が推進してきた原発事故によって、被災地の暮らしと未来は破壊され踏みにじられた。
彼の宿にもやってきた避難者、彼は避難者たちを家族のように受け入れた。その活動は今も保養ステイとなって続いている。
一方、自分たちの暮らす地域には住民無視で作られたゴミと産廃の施設の問題があり、
彼はその反対運動にも参加してきた。
行政は9年を経ても住民の反対運動を座視し続け、むしろ企業側に立ってきた。
国の政治も地方の政治も、市民を裏切りつづけている。
政治の実態が彼に突きつけてくるものがある。こんなことでいいのか。
国の未来も安曇野の未来も見えない。
政治を変えなければならない。自分はどうする、悩みが芽生えた。
安曇野市議会には40代以下の若手議員がいない。
若い人が政治に無関心であることは、これからの安曇野を創っていく上で忌々しき状況だ。
先回の参議院議員選挙に立候補した三宅洋平の生き方が彼に刺激を与えた。
「自分は普通の人たちが政治に参加するようになる、そのキッカケになりたい、捨て石になってもいい」
三宅洋平は176970票を集めて、落選した。
自分もそういう人になろう。
若者が参加できる議会・市政にしていく、はじめの一人になろう。
悩んで悩んで、彼が決めたのは7月30日の朝だった。
彼は心を通じる人たちにメールを送った。ぼくは自分を押し出すと。


彼の出発宣言が終わった、威勢よくはなかったが謙虚で誠実だった。
つづいて、集まってきた人たちから発言が出た。
震災避難から移住者になったママたちから震える声のエールが送られた。
彼の決意は人びとに勇気を呼び起こした。涙声の発言、エールが相次いだ。
彼の奥さんも発言した。
彼は悩む人です。すごく悩みました。悩んで決めました。
安曇野には彼の知らないところで多様な問題があり、いろんな価値観が存在しています。
それが安曇野です。そんな安曇野のために活動してほしいです。
二人の人生が新たな展開に移りはじめたことを受け入れていく彼女の言葉もまた彼に勇気を与えた。
若い選挙参謀が他では見られない、自立した自由な、選挙運動の方式を提案した。
かつての勝手連の運動を想起させる、全市に自己方式の運動が多発して広がり伝播して、
選挙戦が改革の始まりとなる、そういう方式、
若い素人の選挙参謀たちの顔は輝いていた。


ことは始まった。
集まった40人の胸に燃え始めるものがあった。