アシナガバチの巣

 家の軒先のあちこちに、アシナガバチが巣を作っている。壁に立てかけてある材木の端材を動かしたら、その1本に巣があり、数匹のハチがいる。あやうくその巣を材木ごとつかむところだった。
 小学校や保育所に通う孫たちが、夏休みに帰ってくる。ハチに刺されないように、巣を取り除いておいてほしいと家内が言う。そこでぼくは孫たちが刺される危険性のあるところの巣は取り除こうと思う。でも、それ以外の巣はそのままにしておいてやりたい。ハチはやたら人を刺したりしない。現にぼくは巣から2、30センチのところで何かしていても、ハチは襲ってはこなかった。巣のハチたちの落ち着きぶりを見ると、人は危害を加えないと承知しているようだった。それに、彼らは野菜の虫などを取ってくれているようだ。
 毎年そうだった。だからぼくは楽観していた。ハチはのんびり暮らしていた。
 一昨日、巌さんの持ってきてくれた小屋の廃材と、良子さんからもらった稲のはざの丸太を使って、つるバラを這わせる棚を兼ねた日覆いを造っていた。廃材の柱と梁を組み立てて、上によしずをのせる。完成すれば、カンカン照りを和らげることができる。
 脚立に乗って作業しているときだった。ピピピと左上腕に痛みが走った。姿は見なかったがハチだと瞬間的に思った。薄いシャツを着ていたが、シャツの上から刺された。上腕の内側、いちばん皮膚のやわらかいところだ。刺されたところに小さな穴がある。すぐさま薬で中和させようと、家内に薬を探してもらったが、
 「薬はないよー」
 たかをくくっていたから薬は置いてなかった。家内が急いでネットで調べると、流水で刺されたところを洗い流し、毒を絞り出すといいとあった。それをやってみたが、すでに十分ほど時間は経過していた。ハチの巣がどこかにあるのか、近くを見渡してもそれらしいものが見当たらない。おい、ハチ、いったいどういう了見だ。そんなに突然襲ってくるなら、巣を取らなければならなくなるぞ。孫たちが刺されたら大変だ。
そこで夕方、暗くなりかけたとき、竹ざおで軒下の巣を三つ落とした。巣にいたハチたちは大あわてだ。
 そして昨日、またやられた。今度は右上腕、やはり内側の皮膚の弱いところだ。これまたすぐ近くに巣は見つからない。
 我が家の庭はハチの楽園でもある。毎年10個近くハチは巣を作る。しかし今年はどうなっているのか。大事をとって、巣を調べることにした。

 かつて安曇野の豊科に、写真家・田淵行男が住んでいた。いま記念館がつくられている。その田淵の弟子に写真家・水越武がいる。
 水越のエッセイ集「月に吠えるオオカミ」(岩波書店)を読んでいると、田淵行男アシナガバチの生態を写真に撮っていたときのことが書いてある。
 「先生がアシナガバチの生態を手がけているとき、ヘリコプターによる農薬の空中散布によって個体数を急激に減らしていくのを目の当たりにされた。そして早い時期から先生は、化学物質の生態系への影響を指摘されている。これはアメリカのレイチェル・カ―ソンの『沈黙の春』(1962)とほぼ同じころに、先生独自の見解から導き出されたものである。1962年刊行された『小さなラガーたち――アシナガバチの生態』で、有機リン殺虫剤の空中散布がアシナガバチだけでなく、小動物にとって非情きわまる壊滅をもたらしたことに触れて、書き残されている。自然が激しく変貌していく環境破壊に対して『憤りをおぼえ、深い絶望にうちのめされた』と、『安曇野』(1976)で回想されている。」
 田淵行男の憤りからいったい何年たつか。空中散布は今なお行なわれている。ミツバチの減少はそのせいだと言われているにもかかわらず。
 写真家・水越武は年間200日間穂高岳とその周辺をうろついて、写真を撮ったという。日本と世界の自然を見つめて写真を撮り続けている。