更けゆく夜の会話

 

 大阪発の長野行き特急「しなの9号」というのが一日一本ある。フジヤンとサカヤンがそれに乗ってやってきた。昔は大阪発長野行き夜行列車に乗って山に入ったものだが、夜行列車はなくなり、昼の長野行きも一本だけ。大阪8時57分発のこの特急に乗ると、松本着は13時3分。ほぼ4時間の乗車時間だ。
 二人は我が家に一晩泊まり、今朝、山へ入った。コースは常念岳から槍ヶ岳。ぼくは誘われていたが仕事の関係で登山はせず、常念岳の一の沢登山口まで車で二人を送った。登山口は標高1260mで山の気が心地よかった。
 昨夕は庭でバーベキューをした。彼らとぼくら夫婦の、4人の会話はおもしろく、ビールはうまかった。
 ぼくが同志を集めて創りたいと思っている「樹木葬自然公園と子どもの森」構想を話したとき、フジヤンが大きく反応して急に饒舌になった。
 フジヤンは、何年か後にやってくるそのときのことを考えている。それがなんとも深刻というか複雑というか、当人にとっては困ったことだが、聞いているものには興味深い話だった。
 山を愛してきたフジヤンにとっては、山に散骨してほしい、という思いが心の奥にありそうだった。ぼくもまたそう思っている。墓は要らない。樹木葬自然公園が実現したら一本の木の下に一片の骨を埋めてほしい。樹木葬公園が実現しなかったら、山に散骨する自然葬をしてほしい。
 そうは思うものの、やっかいなことがあると、フジヤンは言うのだ。
 フジヤンは先祖代々の墓を受け継ぎ、墓を守っていく義務を負っている。長男のフジヤンにはその思いを打ち消せない。先祖の墓を守っていくということは、自分もそこに葬られるということでもある。そうなるなら当然妻もまた一緒に葬られることをフジヤンは望む。だがそうはいかない壁がある。夫と妻の信仰が異なっているというのだ。すなわち宗教が違うのだ。子どもたちは妻の宗教を信じている。死後はその宗派の教会墓地に葬られたいと思っている。そうすると妻と子どもは自分の先祖代々の墓とは断絶することになる。それを受け入れて、妻と自分は別々の道を行くか、あるいは自分が歩み寄って、妻の宗教に改宗するか。しかし自分が改宗するとなると、自分の代で先祖の墓は無縁になる。さらに問題は、妻の宗教は進化論を否定している。となると生物学を学び、それを教えてきた自分は科学を否定することになる。それは自分の人生を否定することにもなりかねない。だから改宗はとてもできない。
 フジヤンは煩悶する。聞いているぼくはうなるばかりだった。
 「フジヤン、散骨してほしいと遺言しておいたら、ぼくがやってやるよ。ぼくが先に行ったら、フジヤン、ぼくを散骨してくれよ」
 ぼくは冗談でそう言った。
 昼間の暑さはすっかり去り、闇が深まっていた。暗闇の中をコウモリが飛んでいる。何十年ぶりかで山を見ながら夜を過ごす、ぼくとフジヤンとサカヤンだった。
 今朝常念岳をめざした二人、午後天候が怪しくなった。山小屋に無事着いただろうか。