体罰の歴史 <5>

 近代日本は列強に伍するために富国強兵政策に邁進した。その柱が教育と軍隊であった。1945年の敗戦まで、学校教育は軍国主義教育に染められ、軍隊式教育が行なわれた。学校教育の中に軍隊の体罰が浸透していったのは必然のことであった。
 日本の軍隊における体罰の非情さについては、多くの記録に語られている。阿川弘之の小説「雲の墓標」(昭和30)は、作者が体験した軍隊の記録である。その中から、いくつかの事例を抜粋してみる。舞台は大竹海兵団、昭和18年12月12日から日記が始まる。入団して訓練を受けたときのことである。

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 12月12日 
 海軍の生活が地獄であるか極楽であるかは未だ自分には分からないが、分隊長から『娑婆』という言葉を聞かされたときには、自分がいま住み慣れた自分の天地から、はっきり疎隔した別の世界に移ってきたことを強く感じさせられた。
 ‥‥自分たちにはもはやなにものかを選ぶということは出来ない。定められた運命の下に、自分を鍛えることだけがわれわれに残された道だ。
 1月12日
 教班長に対して軽率な言をなした者があって、217分隊は今夕、総員木の椅子に足をかけたまま、半分さかだちのような姿勢で腕立て伏せをやらされ、急降下爆撃といって、いきおいつけて尻をどやしつけられ、オシタップ(たらい)の水を思いきりかけられて、みんな足腰立たなくなったという。腕の力がなえてしまって、支えきれなくなった者は、みな甲板にながれた水をなめさせられたそうである。その修正のはげしさを聞いて、自分は胸をおさえつけられるような苦しみを感じた。
 3月1日
 けさ体操のときに、上衣の整頓がわるいというので、総員上衣をドブ川に捨てることを命ぜられる。霞ヶ浦へそそぐ汚い小川に順々に白い上衣を捨てて、またひろってくる。あまりに嗜虐的であまりに無茶だ。夜は毛布のたたみ方がちがっているといって、総員ビンタ。自分は土浦に来て8発目のビンタである。なぐったのは甲板士官。420人なぐると、なぐる奴の手がはれあがるので、副直学生にオシタップに水を汲んでこさせて、それでげんこつを冷やしながらなぐっていた。
 ‥‥自分は大便に行くのがだんだん楽しみになってくる。あすこは自分たちが鍵をかけて閉じこもることのできる唯一の場所だ。自分は少なくとも5分間、完全な孤独をたのしむことができる。
5月4日
 夜、変な人の講話を聞かされる。文学士という男で、万葉集古事記祝詞がふんだんに出てくる。「すめらみいくさ」とか「かんながらの道」とか「かけまくもあやにとうとき」とかいう言葉の連続で、何の話か全然分からない。「かけまくもあやにとうとき」と来ると、次に皇室のことが出てくるので、座ったまま「きをつけ」をしなくてはならず、煩瑣なことおびただしい。
 ‥‥解散になって先生を送り出してから、「ただちに総員練兵場に集合、かけあし。」これは何か来るなと思っているとはたして分隊長壇上に上がり、
 「たといどんな話でも講話の最中貴様たちのあの態度は何だ! 居眠りしたもの、屁をしたものは全部出て来い!」
 たちまち空気はシインとしずまりわたり、そのなかを足音があって、二人出て行くものがあった。
 「まだまだおる。全部出て来い!」
 ‥‥それより各分隊前後列一歩ひらき、向き合った者どうしで相互修正。八百長のなぐり方をしているのが見つかると、
「こういうふうになぐるのだ」と、ぶっ倒れるほど活を入れられる。
 昭和19年10月5日
 ‥‥樫のこんぼうを持って士官が三人出迎えに来ていた。
 「これからお前たちを徹底的に締め上げるから、その覚悟をしていろ」
という挨拶をした。ちょっと暴力団に杯をしに来たような気持ちがした。以来毎朝、駆け足の遅いもの、欠礼をしたものが、かたっぱしからなぐられている。あごを食らわすことを「日課手入れ」というらしく、一日最低三度はやられる。夜は下士官にしめあげ、いじめられている幼い練習生たちのうめき声が、手に取るように聞こえてくる。日本の崩落していくいきおいを、こういうことで食い止めうるとでも思っているのだろうか。
 昭和20年1月15日
 夜、呼び出しの電話あり。
 「体操のときシャツを着てやっていた者がある。全員公室へ来い」と。シャツを着てやっても差し支えないというのは、先日先任将校からの口頭の達しであった。全員公室に行き、そのむね言って抗弁するが聞き入れられず。最高7発、最低2発、自分は5発なぐられる。それより駆け足。エプロンを2周、約1里である。寒夜汗みずくになる。それで放免かと思ったらさにあらず、冷雨の降りだした庭に出されて、ひざ屈伸、手を斜め上にあげる体操約450回、みなよく耐えた。足腰立たず。きちがいじみた修正と言うべきである。
海軍とはこういうところだ。

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 「修正」という言葉でもって、体罰が行なわれていた。学校で言うなら「指導」という言葉で体罰である。    (つづく)