体罰について、シュタイナー教育の考え方

 メディアでは体罰についていろいろ意見が出ている。ところで、全国の学校・スポーツ団体では、この問題を全職員で徹底的に話し合っただろうか。自分の体験、自分の意識、体罰をやったこと、体罰を受けたこと、体罰を見たことなど、自分の経験をさらけだしながら、人間にとって社会にとって、体罰とは何だろうかと議論し研究しているだろうか。学校での体罰は法的に禁じられていても、体罰は続いてきた。自分が子ども時代に、体罰を見たり、受けたりし、教師になってから先輩教師のそれを見、ある日、自分もまたそれを行なっていた。隠然と根づいているこの問題を必要悪とみなし、仕方のないこととして見過ごしてきた自分であると、振り返る人もいるだろう。正直な気持ちをを出しながら、そこから我々の中に何があるのかと、徹底究明をしているだろうか。

 シュタイナー教育のなかで、体罰をどうとらえているか。
 高橋巌氏は、次のように論じている。
 「従来、私たちが周囲で見聞きする学校教育のあり方というのは、おおざっぱに言うと、人間を一個の複雑で精密な機械だ、と考えていますから、教育関係の人が語る言葉は、どんなにそれぞれ違っているように見えても、その発想の根底にある基本的な人間観を見てみると、多くの場合に、その人は、若者を一個の機械と見なしているのです。‥‥
 中学校の教育のむずかしさというのは、教育する側の大人が子どもを一種の機械と見なし、一方、子どもはそれに対して無意識的、本能的に反抗するというところからきているのではないでしょうか。特に先生は、体罰を加えないと子どもの魂は鍛えられない、と当然のことのように思っています。‥‥中学の時期に、やっていいこと、やっていけないことのけじめを一種の生活習慣のようにつけさせれば、まともになるけれども、この時期にそういう枠がはずれてしまったら、子どもは高校あるいは大学へ行くにしたがって、基本的な生活習慣をもたない大人になってしまう。
 そう考える人の背後に、人間の魂、人間そのものを機械だと考える考え方があるのです。」
 それに対して、シュタイナー教育では人間は機械だとは考えない。中学2、3年ごろから高校生時代にかけて、人間は劇的に変わる。ところが外から枠をはめて、力で抑えつけるやり方をしていると、内から湧いてくるドラマチックな変化が起こらない。起こってしかるべきときに、起こらないと、心に病が生じる。だからこの時代の子どもには細心の注意をはらう必要がある。
 中学2、3年生の子が、自己意識に目覚めて、周囲がよく見えるようになり、周囲のやっていることが自分には納得いかない、自分がなんで勉強するのかよくわからないし、先生がどうして「遅刻するな」と怒鳴るのかもよく分からない、友だちと自分との関係もいい関係とは思えない、そう思うようになったときは、それはその子が論理的にものごとを考えることができるようになった証拠である。そこで、子どもは自分を取り巻く状況を肯定できないと思う。目覚めた論理的な力によって、なぜこうなんだろうと考える。その内的要求を、周囲が支え肯定するのでなく、それを否定し、子どもの衝動を抑えると、その子は周囲に対して非常な反感を抱き、外に向かって適応したいという要求も弱められ、内的に屈折してしまう。
 中学校の先生は、はじめてクラスの子どもたちの前に立ったとき、その子どもたち一人ひとりの中に、屈折した魂の痛みを感じ取ろうとしなければ、教育は成り立たない。屈折した魂のありようは、子どもたちに責任があるのではなく、大人たちの責任なのだ。
 そこでシュタイナー学校では、14,15歳ごろから外との関係を取り戻すための教育を徹底して行なう。たとえば、身体に痛みがあれば、それはどこに原因があるのか、身体の仕組み、医学と治療の学問を学んでいく。4年生から縫い物を学び、7年生で自分の着るものをデザインし、身体と心との関係を感じ取れるようにしていく。10年生になると、土地測量術を学び機械を学ぶ。先生は子どもと道を歩きながら、土地の高低、地質の特徴、生えている植物など一緒に観察しながら、外との関係をつくっていく。その学習は無限に広い。そうして外との因果関係を知的に確認する。
 「その大事な教育の過程で、先生が暴力を肯定して、だめな子どもをなぐったり、物を盗んだ子どもを、学校の恥、クラスの恥だと考え、その名前をみなの前で明らかにしたり、体罰を加えたりしますと、どうなるか。周囲の社会の矛盾を子どもにおしつけることが正義なのだと、教えることになるのです。それは本当の意味で責任をとらない責任感のない人格を育てます。」
 暴力肯定論者は戦争に行けばどんな残酷なことをするか分からない。国家がナチスのような体制になれば、そのような政治体制を肯定し、いくらでも残酷になって人を殺せる。シュタイナー教育はそういう状況との戦いなのだ、と高橋巌氏は述べている。
 自殺した高校生は、自分の置かれてきた抑圧を論理的に考え、訴えようとした。それが封殺されず、誰かが受け止めることができていたら悲惨な自殺に至らなかったろう。柔道指導者を告発した強化選手たちの訴えも非道に対する論理的な告発だった。教育とスポーツに、大きな変革をもたらすものにするため、考えていかねばならない。