彼らは故郷へ帰っていった

 昨夜、李君から電話あり。
 「あした、7時半、経友会の寮から帰ります」
 「えっ、明日帰る?」
 「はい、帰るの、早くなった」
 李君たちの帰国は次の日曜日だと聞いていた。だから、その前日の明土曜日に、帰国する李君と8月に帰国する王さんと董さんを我が家のランチに招こうかと考えていた。それが2日早くなったのだ。招待ランチはできない。
 今回、李君の実習してきた農場から帰国するのは3人だ。この農場に実習生を送り込んでいるのは、実習生の受け入れ機関「協同組合 経友会」である。3年間の労働を終えて、実習生が帰国するとき、日本の最後の一夜は、経友会の寮で過ごすことになっているようで、昨年帰国した2人も経友会の寮から帰国の途に着いた。
 「あした7時半? 経友会の寮からだね。じゃあ、あした7時半。見送りに行くよ」
 「7時半、経友会」、忘れないようにしなくちゃ、ということで一夜が開けた。
 今朝は気温が低く、シャツ一枚では寒いぐらいだった。朝のウォーキングのあと朝食を済ますと、いい時間になる。家から車で5分、経友会に行った。寮の門を入ると3人の姿が見えた。荷物は車に積み終わり、出発を待つばかりだ。
 3人のうち1人は日本語教室に来たことがなかったので名前も知らない。李君と一緒に、去年まで日本語教室に来て勉強し、ぼくの家にも遊びに来たことのある董君は、ぼくの顔を見ると飛んできた。
 「富士山にのぼてきた」
 董君がぎこちない日本語で言う。
 「えっ、富士山? ほんとう?」
 「はい、富士山」
 董君はケイタイに映った写真を見せてくれた。
 聞けば、日曜日に安曇野から富士山に向かい、富士の五合目に着いたのは夕方、それから一人で歩きはじめ、夜の山道を、懐中電灯の明かりで登った。たくさんの登山者がいた。頂上についたのは午前2時半、
 「さむかた、服さむかた」
 「そりゃ寒いよ。3700メートルだよ」
 「それから太陽まった」
 「日の出を見たんだね。御来光というんだよ」
 「午前4時40分ごろ、見た」
 丸裸の弾丸登山だ。おそらく山の装備なんて持っていっていないだろう。やり遂げた「無謀」にあきれながらも感心する。彼のバイタリティのすごさだ。
 彼らは3年間、ほとんど日本のどこへも旅行することなく働き続けた。そして最後に5日間の自由時間が得られた。それを使って、李君は上高地に行き、董君は富士山に登った。董君はむこうみずな冒険をしたが、3年間で唯一の自由の謳歌だった。
 「みんな家族が待っているね。早く帰っておいで、早く帰っておいで」
 彼らはうなずく。彼らは切にそう感じる。帰心矢の如し。
 上高地にゆくとき、李君はこんなことを言った。
 自分は日本に来るまで、一人で家を離れて旅行したことがなかった。日本に実習で行くことになり、この3年間初めて親から離れた。
 「かわいい子には旅をさせよ」、彼らの親は子どもを放し、彼らは親から離れて3年間を暮らした。それが彼らの精神的な自立になり、同時に経済的な自立となった。
 午前7時半、3人を名古屋空港に送ってくれる経友会の職員が寮から出てきた。昨年前の2人を送っていった同じ人だった。ぼくの顔を覚えていた彼から丁重な挨拶をいただいた。
 「いつもお世話になっています。先に帰国した二人、元気にやっていますよ。私もときどき中国へ行きます。帰国した人はもう日本に来ることはありませんが、がんばっていますよ」
 一期一会、ぼくの人生を通り過ぎて行った研修生、実習生はたくさんの人数になる。北京、青島の中国労働部研修所や、愛知と岐阜の日中技能者交流センター研修所で教えた若者たち、彼らは中国のどこかで今を生きている。もう一度会いたいと思う人が何人もいるが、もう再会することはないだろう。彼らはぼくの思い出の中に生きる。
彼らの乗ったワゴン車が諏訪神社の森蔭に消えていくまで、ぼくは道の真ん中にたって両手を振り続けた。「一路平安!」。

 李君の故郷は河南省洛陽、董君の故郷は南陽、今はもう家族のもとに帰っているだろうか。
 3人の年齢ともに22歳。