好きな道 愛する道


 「この道、好きだなあ」と、小学生の時思っていた道がある。学校からの帰り道、旧街道を通って帰るか、カルタ池で旧街道からそれて野道を帰るか、そのときの気分で決めていた。旧街道を帰れば少し早く帰れる。でも、ぼくの好きなのは野道の裏道だった。道幅は人一人通れるだけの狭い道だった。この道の何が好きだったかというと、道が折れ曲がり、カーブしながら行くことになるそのイメージだった。飛行機が翼を右に下げて右に旋回する、左翼を下げて左に旋回する、この道を行くと空中を飛行しているような感じがしてくる。ぼくはこの想像にひたる時が好きだった。池を過ぎてゆるやかに左にカーブして50メートルほど行くと、道は急に上りになって右に折れる。ぼくは坂を上りながら右に旋回する。つづいて30メートルほど行くと左に直角に折れる。そしてしばらく草の道を行き、ゆるやかに右にカーブを描いて、小池のほとりに出る。小池を右に見ながら坂を左にゆっくり曲がっていくと、岸が草で覆われた墓地の沼地が左に現れる。それが過ぎれば右に仲哀天皇陵の森がどかんと待ち伏せしていた。夏場、堀にはハスの花が咲いて、サギが舞っている。我が家はそのすぐ近くにあった。小学生の頭にも、歩いて感じる道のイメージが心地よかった。
 あるとき、ウンチがしたくなった。池のほとりで用を足し、大豆の葉っぱをもいでお尻を処理した。
 この道はいまはもうない。住宅街になってしまった。それでもその道は詳細におぼえている。
 ぼくの好きな道のイメージ、
 直線よりも曲線の道が好きだ。
 道幅が狭いほうが好きだ。
 車が来ない道はなおさら好きだ。
 S字を描く道は、先のほうが見えない、そういう道は先が見えないから興味をおぼえる。うねうねと大蛇が体をくねらしているような道を行くのは、距離が長くなるから時間もかかる。現代人の、速ければいいという価値観に反する。ところがこういう道は生きている感じがする。生垣に咲いている花がある。ちょっと脇にある家の庭をのぞきたくなる。
 安曇野は散策するところだ、と言いたいが、そう言えない哀しさ。ほとんど直線道路になり車がばんばん走っている。もうこれは人の歩ける道ではない。

 大和の国の、明日香から奈良公園まで続く「山之辺の道」と、金剛山葛城山二上山の麓を連綿とつなぐ「葛城の道」は、ぼくの好きな道だった。
行く先が見えない、何が現れるか分からない、細く曲がりくねった細道。小さな小さな道しるべだけが頼りだった。秋には柿の実が色づいていた。彼岸花が野を真っ赤に染めていた。道に迷っても、迷う楽しさがあった。古代から人が歩いた道だった。