体罰の歴史 <3>

 明治12年(1879)に出された日本の体罰禁止令、それはアメリカで最も早く、1867年に制定されたニュージャージー州の学校体罰禁止令を受け入れたものだった。どうして近代化が始まったばかりの日本に受け入れられたのか。学校体罰禁止の先進国フランスでさえ体罰禁止令はその8年後である。江森はこの疑問について、それが可能になったのは、日本の伝統思想の中にあった国民のエートス(精神的雰囲気)によるものではないかという仮説を立てた。江戸時代の探究を通して、国民のエートスとして体罰を残酷とみる見方がすでに定着していたからではないかと。
 日本は明治期になって、西洋先進国の教育思想、制度、実態を進取の精神で学び、取り入れる。明治7年の教育雑誌には、アメリカの「学校責罰論」が掲載される。そのなかに、
 <子どもを責め、罰するとき、暴力的な怒りで行なってはならない。急いで行なったり、むごすぎることをしたりしてはならない。子どもを責罰するには、必ず慈しみの心と温かい言葉をもって行なうべきである。>
という内容もある。また、
 <ののしり、おどし、せっかんし、体罰などの苛酷な罰を与え、あるいは生徒の面目にかかわる罰を与えて、生徒に課業をやらせるのは不正である。その害ははなはだしいものがある。>
という主旨も「学校責罰論」に述べられているという。
 今から140年前、このように明治初期の日本では、体罰否定論が論じられていた。
 ところが、西洋の近代教育思想の中身は体罰完全否定論ではなかった。学校では体罰は常用され、体罰的構造が内面化していた。体罰否定論者のコメニウス、ロック、ルソー、ペスタロッチにしても、体罰完全否定論者ではなかったと江森は見ている。
 江森はフーコーの考えを紹介している。フーコーはフランスの哲学者であった。
 <フーコーは18世紀後半から顕著になる身体刑の廃止、刑罰の穏和化という事態を、当時の「錦の御旗」であったヒューマニズムや人間的共感の問題としてではなく、より効率的に、より「がんじがらめ」に、人間を統御し規律・訓練してゆこうとする、圧倒的に強大で多数からなる「権力」の隠微な網の目の問題として考えた。フーコーがこの悪魔的に深くかつ緻密にできた「管理の構造」を内包する西欧世界の行く末に何を見ているのか、それこそが問題である。フーコー自身も模索の中で死んだ。ともあれ、今日の「西欧化」日本において進行中の事態の本質を、体罰も含めて指摘してくれていることは確かである。>
 フーコーの説は、フーコーの論文に当たらなければ、正確には分からない。さらに学者もフーコーの論文は難解だと述べている。それにしても、フーコーの論に登場する「権力」というもの、これは学校体罰が隠然とその後も、現代に至るまで学校の中に存在し続けている原因を解明していく鍵になるように思う。
 体罰禁止令は出た。しかし隠然として体罰の気風は存在した。
 世界が帝国主義時代にある中、日本は、近代国家を作るため、軍事と教育の二大支柱はプロシア(ドイツ)を手本とした。日本は富国強兵が国是となり、学校教育の中に軍隊教育が導入される、教員養成の師範学校の教育は軍隊モデルに改造された。そこでは先輩後輩の上下関係が強固になり、私的制裁を生む。迫害されたものは自分より弱者を迫害する、なぐられた者が、より弱者をなぐるという心理メカニズムが醸成されていった。(つづく)